ヴァッハウ渓谷入り口にあるメルク修道院は荘厳なバロック建築で、この辺りの風景とよくマッチしています。
すでに メルク修道院については何回かにわたって書いていますが、今年2014年は
このメルク修道院にあるとても貴重な「メルクの十字架・・・Melkerkreuz」を見ることができます。
このメルクの十字架はハプスブルグ家のルドルフ4世によって1363年に作られたもので、この十字架の中にはイエスが磔になったといわれる十字架の木片が収められています。
この木片はバーベンベルク王朝時代の3代目の君主アダルベルトによって1040年にもたらされたものということになっています。
左側の写真は素晴らしい宝石が十字架に施されていて、世俗権力を表し、
右側はその裏側で、真ん中にイエスが磔になっていて、その周りには4人の福音書記者(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)が見えます。
ここでは宗教的権力が表されています。
この貴重なメルクの十字架は普段は展示されていませんので、映像でしか紹介されていません。
しかし、このメルク修道院にとってとても重要な記念の年にはこのように特別に展示されます。
今年2014年は、バーベンベルク王朝の2代目君主ハインリヒ1世が、このメルクの街の守護聖人コロマンのまだ腐っていなかった遺体を、1014年10月13日にこの修道院に運び込んだ日の1000年記念の年というわけです。
このメルクの十字架は是非見て頂きたい貴重なものです!
こちらはエレベーター内にある行きたい階を押す部分です。
単純に駐車場などのように地下に1階降りるだけや、逆に1階上がるだけのような
エレベーターは別として、通常、
エレベーターには階数表示がありますね。
この写真は9階分押す場所があります。
最も一般の人は、階数表示の左右に光っている案内表示がある階しか押せません。
でもよ~く見ると階表示は通常とは違う
数字が表示されています。
一番下から「K2, K1, -1, -0.5, 0, 0.5, 1, 2, D」という表示になっています。
日本で言う1階は、こちらでは "E" とか "0" という表示が一般的です。
写真では0階が点灯しています。
エレベーター内の階表示も色々ありますが、ここは0.5という中途半端な表示を見ることができます。
「K」は、"Keller" (地下)ということですので、地下2階まであるわけです。
「D」は "Dachgeschoß" (屋根裏階)
なので最上階です。
この0.5 や -0.5階は中2階といった感じです。
このおもしろい表示があるエレベーターは 美術史博物館のエレベーターです。
まもなく休暇シーズン到来です。
実際には週末なので今日からFerien(フェーリエン)という年度末の夏休みです。
こちらは9月から新年度が始まります。
学校も6月で終わり大きな休みに入り、地元の皆さんがウィーンを留守にする時です。
そのため7月~8月に多くの人が休暇(Urlaub)を楽しむわけです。
でも逆にウィーンには世界から様々な人が来ます。
以前休暇に飛行機で行く時のストレスというタイトルで"やめてくれよ!"と思うことを
紹介しましたが、休暇フライトの雰囲気は独特で、しかしある意味では地元ならではの
光景です。
ウィーンは地理的にもヨーロッパの中央付近に位置しているため、
この前のサルディニアでも書きましたが、ウィーンから地中海の島々を始め、
様々な休暇場所にダイレクト便が頻繁に飛んでいます。
そんな休暇フライトでのおもしろい結果を紹介します。
飛行機のどの席に一番座りたくないか、逆にどこが人気があるか・・・についてです。
この結果はeasyJet http://www.easyjet.com/ によるものです。
・座りたくない席 19C (比較的後方通路側)
・座りたい席 7F (比較的前方窓側)
・列としては6列目、7列目が最も人気があるらしいです。
・右か、左かと言えば、右側を好む人が多いということです。
・25歳以下の若者と女性は窓際を好む人が多く、ビジネスマンは逆に通路側を好みます。
でも何となく理解できる結果だと思います。
こちらはサルディニアのCOSTA SMERALDA (エメラルド海岸) です。
この写真は去年のものですが、画像は一切加工してません。
ウィーンには7つの美術館がありますが、美術史博物館は本当に絵画史上重要な画家が
目白押しです。
またここは問題なく撮影もできるので、このブログコーナーの「絵画」のタイトルでは
今の所この美術史博物館がメインとなっています。
今日はこの美術館でも重要なブリューゲルです。
ブリューゲルの家系は画家が多く、一般的にピーテル・ブリューゲル(父)と書きますが、
長男のブリューゲルも次男のヤン・ブリューゲルも知られています。
ドイツ語では"Pieter Bruegel der Ältere"です。
このブリューゲル(父)の作品はこの美術史博物館の大変重要な位置を占めるもので、
一族では最も有名ですが、それにもかかわらす生い立ちがはっきりしていません。
1551年にアントワープの画家組合に登録されているのが最初の記録です。
そこから生まれた年が推測されています。
おそらく1525-30に生まれ、1569年に亡くなっているフランドル(現在ではベルギー)の画家で、アントワープ、ブリュッセルで活躍しました。
1551~1554年にイタリア旅行をし、ローマ滞在や南イタリアにも赴いた様で、
またアルプス地域もおそらく通っています。
1554年からアントワープに再び約8年住み、その後1563年からはマリア・クックと
結婚すると同時にブリュッセルに住みました。マリア・クックはブリューゲルが絵を習っていた先生の娘です。
こちらはお馴染みの「雪中の狩人」です。
1565年から1年かかって6連作を描いた
月歴画です。
そのうち5点は現存していて、ウィーンには
「暗い日」と
「牛群の帰り」の
2点があり、
これと合せて計3点があります。
一見日本画的な印象を与えることから親しみやすいのかもしれません。
「バベルの塔」はとても迫力があります。
巨大な塔が建設されていく・・・でも神からの
怒りによって言葉が混乱されて、建設が途中で
終わってしまうという
話ですが、ブリューゲルは初めからこの塔は完成することはないということを念頭に描いているようです。
内部のアーチ構造はローマのコロッセウムを念頭に描いているとされ、
イタリア滞在の影響が見られます。
「農民の婚宴」は、やはりこの美術史博物館にある「農民の踊り」とともに臨場感をもって描かれ、画面全面に人物が大きく描かれています。
伝統的な習慣を描いたものとされています。
私達がこの場所でこの婚宴を見ているようで、わいわい、がやがやといった声が聞こえて来そうです。
風刺画的な人物表現も特徴があります。
これは納屋での婚宴です。
ブリューゲルはおそらくオランダの画家「ヒエロニムス・ボッシュ」の影響を受けた画家のひとりで、当時多くの画家がボッシュの影響を受けましたが、
ボッシュの影響を受けながらも自らの個性を発揮できた唯一の画家かもしれません。
宗教画、伝統行事、農民、教訓、風景などと広範囲にわたって作品があります。
ちなみにブリューゲルの長男は父の模索を多くし、地獄の絵を描いたことから
「地獄のブリューゲル」、次男のヤン・ブリューゲルは、花や鮮やかな細かいタッチで
描いた絵が多いことから「花のブリューゲル」とか「ビロードのブリューゲル」とも呼ばれています。
この夏の時期は自転車で走っている人を本当に多く見かけます。
以前「ウィーンの自転車文化」でも書きましたが、こちらは自転車も生活に密着し、
「CITYBIKE」という、どなたでも利用できるレンタサイクルも街中至る所に見ることができ、気軽に利用できます。
自転車専用道路がよく整備されています。
街中だけではなく、郊外にも多くのRadweg(自転車道路)があり、ウィーンからもウィーンの森などに入って行くサイクリングコースもあります。こちらの写真は以前も紹介したウィーンの森ヘレーネ渓谷のサイクリングコースの表示です。
そんな自転車文化が禁止になっている場所もあります。
この写真の場所はウィーンの森
一角のハイキングコースですが、ここに"自転車禁止" 標識を見ることができます。
実はこのコースは道幅が狭い所もあり、川に沿って比較的高い場所にもコースがあるからです。
このような自然の中のハイキングコースで自転車禁止の標識はあまりないと思います。
前回の知られざる美しい中庭風景 8 は 4月13日に紹介しました。
こちらは最近修復された雰囲気がある旧市街地一角の中庭です。
こちらの風景は、細長い中庭空間です。
実はこの空間は、前回 知られざる美しい中庭風景 7で最初に紹介したPostgasseから入れる空間で、
その空間を上から眺めた光景です。
よく見ると、奥の方に前回紹介した
バロック的曲線とルネッサンス的な
アーチが一体化した門が見えています。
つまり前回の写真とは反対側から門を
見ているわけです。
こんな空間は外だけ歩いていたら全く
わかりません。
こちらは一見ただの教会を横から見ているだけのようですが、普通はこの教会をこの角度から見ることはできません。
これはイエズス会教会で、2本の特徴的な塔が見られますね。
この塔が2本見える側が教会の入口になっています。
イエズス会の教会の天井のだまし絵を参考にして下さい。
街中にある教会は結構他の建物とくっついていたり、建物が
密集している地域に建っていること、また通常入口から入りますからその入り口部分だけを無意識に見てしまいます。
そのため外から教会の全体的な形を一瞬で把握するのは難しいです。
そんな中で、普通はこのイエズス会の教会は正面部分が印象的であるため、そこだけしか
見えませんが、このように教会本来の部分が見えるのは新鮮です。
国立オペラ座の裏のアルベルティーナ広場には、ウィーン観光案内所があることはかなり知られています。場所もいいですし、気軽に立ち寄れ、様々な情報を集めることができます。
同じようなインフォセンターで、
意外と知られていないのが市庁舎のインフォメーションセンター "Stadtinformationszentrum" です。
この場所はリンク道路沿いの有名な建造物のひとつである市庁舎の中に
あります。
中と言っても、この大きな建物の
どこにあるのだろう・・・という
ように行きにくい場所ではなく、
市庁舎の裏側中央部分に入口があり、入るとすぐこの写真のような美しいゴシックアーチ
空間が広がります。この空間がインフォメーションセンターです。
ここにはコンサート情報はもちろん、ウィーンの様々なイヴェント情報が集められ、そこらじゅうに自由に持って行けるパンフレットや小冊子などが置かれています。
ちょっとした座れる空間も用意され、自販機もあるので飲み物も買えます。
もちろんパンフレットが置かれているだけでなく、係りも常駐しています。
ここはどちらかというとウィーン市民のためのインフォセンターです。
しかし、観光の皆さんもよく訪れます。
素敵な空間なのでこの付近に来られたら是非立ち寄ってみてはいかがでしょうか。
ウィーンの南の森一角にHeiligenkreuz(ハイリゲンクロイツ)という小さな街があり、
そこに街の名前の由来である歴史ある有名なハイリゲンクロイツ修道院があります。
ここは是非内部見学をしたい修道院です。
今日はその修道院の教会にあるパイプオルガンについてです。
こちらがそのパイプオルガンです。
このオルガンは、Kober Orgel
(コーバーオルゲル)と呼ばれ、中庭から修道院付属教会に入り、
ロマネスクバシリカ様式の空間に
修道士が使う聖壇があり、そこを通ったすぐ左側のゴシック空間が始まるすぐ
手前に見ることができます。
つまり北側です。
天井まで届きそうなぐらい
大きいオルガンです。
皆様を御案内する時には、私は回廊を
先に見学し、その後教会に入ります。
その方が教会がより素晴らしい印象を
与えてくれます。
このパイプオルガンは、Ignaz Koberによって、1804年に作製されたもので
今年で210年です。
そこでKober-Orgelと呼ばれています。
2つのマニュアルと55のレジスターがあり、パイプの数が2959本です。
オルガン手前にある教壇のようなものが鍵盤部分で、奏者はオルガンを背にして
演奏します。
元々このオルガンは、西側正面入り口の、バロック時代当時にロマネスク様式空間に作られたEmpore (聖歌隊席)に1950年まで設置されていました。
聖歌隊席は通常教会に入ると、正面祭壇に向かって、真後ろ側の上部分に見ることができ、たいてい立派なパイプオルガンがあります。
この聖歌隊席は、この中世の教会空間の響きを損なわせたことから、その後取り壊されましたので現在では見ることができません。
このオルガンの壁は、近くで
見ると、緑がかった大理石に
見えますが、素材は木です。
Ignaz Kober は、現在の
チェコで、1756年に生まれ、1813年に亡くなっている、
重要なウィーン宮廷オルガン
製造業者です。
モーツァルトと同じ年ですね。
このオルガンは、シューベルト、アントン・ブルックナーといった有名な作曲家にも
演奏されています。
特にシューベルトは、このオルガンのために「連弾用フーガ」も作曲しています。
オーストリアの歴史ある修道院や教会にはこういった重要なオルガンがたくさんあります。
このコーバーオルガンはこの修道院のメインオルガンとして、今でも素晴らしい音色を
出し、活躍しています。
ウィーンには世界で最も音響のいいホールのひとつである有名な「Gesellschaft der Musikfreunde・・・楽友協会」があります。
ウィーンフィルの本拠地であると同時に、ニューイヤーコンサートが開かれる場所でもあります。
その楽友協会の地下には、2004年以来から4つの新しいホールが作られて頻繁に利用されています。
楽友協会の建物の地下ということですが、1870年からの歴史あるこの建物の真下に建設することはリスクを伴うことから、実際は建物の真下ではなく、正面入り口がある広い空間の地下に建設されました。
もちろん、楽友協会内部からそのまま地下のホールに通じています。
今日はその4つのホールについて書いてみたいと思います。
楽友協会ホールについては以前にここでも紹介しているので参考にして下さい。
ガラスのホール
(Gläserner Saal)
客席数380、4つのホールの中では最も収容人数が多いです。
広さ22m x 12.5m、高さ8m、上方から舞台が見られる席もあり、舞台は
黄金の間の大ホールと同じサイズです。
そのため大ホールの本番を想定したリハーサルにも適しています。
たまたまこの時にはスクリーンが出されてますが、この壁はガラスで作られています。
メタルのホール
(Metallener Saal)
客席数126
広さ13.5m x 10.8m,高さ3.2mです。
壁はメタルのプレートで埋め尽くされています。
ちょっとしたスタジオ的雰囲気です。
石のホール (Steinerner Saal)
客席数70
広さ13m x 8.8m,高さ3.2mです。
壁は明るい色の石が積み上げられて
います。
全体的に温かい雰囲気で、講演会や
セミナーなどにも適しています。
木のホール (Hölzerner Saal)
バンケットルームとして60人まで
カクテルパーティーの場合は80人まで
広さ11.5m x 7.5m、高さ3.4mです。
ここの壁全体と天井の一部は木が使われています。
このように楽友協会には、有名な大ホールの黄金の間、小ホールのブラームスザールの他に、個性ある4つのホールがあり、コンサートやリハーサルを始め、多目的に貸し出されています。
ドイツ語ではGlockenblume,
学名ではCampanula,
日本語では総称してカンパニュラです。
キキョウ科のホタルブクロ属で、
カンパニュラは総称です。
ほとんどが多年草で、種類がとにかく多く300~500種類程と言われています。
花の色は紫が圧倒的に多いですが、白やピンクっぽいものもあります。
高さは10cm~50cmぐらいが多いと思いますが、種類によっては150cmぐらいのものもあります。
開花時期は5月~9月で、
花は1.5cm~2cmぐらいでしょうか。
釣鐘型の花を2つ~8つぐらい咲かせます。
種類によっては数十輪咲かせるのもあります。
世界の様々な場所で見られ、草原や森などに多く見られます。
また標高2000mぐらいまでにも見ることができます。
この写真のカンパニュラは、ウィーンの北の森のカーレンベルクの一角にぽつんと可愛らしく咲いていたものです。
2014年になってから結構物価が上がった気がします。
最近の新聞に物価の上昇率が掲載されていました。
このデータは今年2014年の5月をベースにし、去年2013年の5月と比較したものです。
※Statistik Austria より
EUの国 | 物価上昇率 |
オーストリア | 1.8% |
イギリス | 1.8% |
ルクセンブルク | 1.4% |
ルーマニア | 1.3% |
フィンランド | 1.0% |
スロヴェニア | 1.0% |
ラトビア | 0.8% |
フランス | 0.8% |
ベルギー | 0.8% |
エストニア | 0.6% |
ドイツ | 0.6% |
EU 全体 | 0.6% |
チェコ | 0.5% |
ヨーロッパ全体 | 0.5% |
マルタ | 0.4% |
EUの国 | 物価上昇率 |
イタリア | 0.4% |
クロアチア | 0.4% |
アイルランド | 0.4% |
ポーランド | 0.3% |
デンマーク | 0.3% |
スペイン | 0.2% |
スウェーデン | 0.1% |
オランダ | 0.1% |
リトアニア | 0.1% |
スロヴァキア | 0% |
ハンガリー | 0% |
キプロス | -0.1% |
ポルトガル | -0.3% |
ブルガリア | -1.8% |
ギリシャ | -2.1% |
このデータによればEU諸国でオーストリアがイギリスと並んでここ一年で一番物価が
上がった国ということになります。
2014年から値上がりするものでも紹介していますが、タバコ、携帯電話通話料、家賃などが高くなっているようです。
特に家賃は去年の5月と比較すると3.6%も高くなっています。
ウィーンの旧市街の一角のミヒャエル広場は、ローマ時代からの道が交差し、ローマ時代の遺跡、王宮、ミヒャエル教会を始め重要な建物が並んでいる重要な広場です。
ここに"眉毛のないビル"として有名なロースハウスがあります。
王宮を背にしてこのミヒャエル広場に立つと、正面には歩行者天国で有名なコールマルクトが見え、そのすぐ左にこのロースハウスが建っています。
周りの歴史的な建築とは違って、モダン性がありひときわ目立ちます。
このロースハウスは、オーストリアの重要な建築家アドルフ・ロースによって、1909年~1912年に建てられました。
1909年5月に Goldman & Salatschという紳士服専門店のこのビルを新しくするという建築コンペがありましたが、満足のいく案がありませんでした。
その後まもなく、そのコンペの審査員だったと思われるアドルフ・ロースに依頼され、当時のモダンな技術の鉄コンクリートスタイルで建築します。
ロースハウスが建築されていくと、まもなく批判が飛び交いました。
19世紀後半からの時代は "Historismus・・・歴史主義"と
呼ばれ、ウィーンのリンク道路に代表される、様々な建築様式のオンパレードといったとても豪華な時代でした。
そんな時代様式に慣れた人々から見ると、このロースハウスは装飾がなく、大変なショックだったわけで、当局からも建築ストップがかかったぐらいでした。
伝統的に建物の窓の上部分には、庇のような装飾がされるわけですが、ロースハウスに関してはそれがなく、まるで"Haus ohne Augenbrauen" (眉毛のない家)と批判にさらされたわけです。
この写真を見ても、窓が綺麗にならんでいますが、装飾はなくスッキリしています。
当局と世間との1年間の論議の末、ロースは妥協策として、窓の下に花が置けるスペースを付け加えたわけです。
これが唯一の装飾的効果でしょうか。
そのため当初より時間がかかって1912年5月に認可されました。
ロースハウスの1階店舗部分は、ギリシャエーゲ海のエヴィア島からの大理石 Cipollino (チポリーノは炭酸が含まれた鉱物)を用い、トスカーナ様式の柱が配置されています。
2階から上は住居として使われていて、いたってシンプルです。
この写真はその1階大理石の柱部分です。
こちらはロースハウス1階の内部空間です。
現在はREIFEISENBANKという銀行が入っています。
中に入っても最初は銀行らしく見えません。
ロースは店舗空間をお客さん側と店側とハッキリ分け、
マホガニー材、オーク材など高価な素材を使用しました。
<アドルフ・ロース Adolf Loos >
アドルフ・ロースは、1870年12月10日ブルーノ(現在のチェコ)で生まれ、1933年8月23日 ウィーンで亡くなりました。
彼の父は石工・彫刻家でした。
10歳から成績が悪いことで、学校を転々としますが、ウィーンのアカデミーで少し学んだ後、19歳からドレスデンで学び、1893年に彼のおじさんが住むアメリカに渡り3年間滞在します。
その3年間は、日雇い、皿洗い、音楽表評論、家具デザインなどの仕事をします。
1996年からウィーンに住み、ジャーナリストと建築家として仕事をします。
有名なオットー・ヴァーグナーの影響を受けますが、オットー・ヴァーグナーのコンセプトを更に発展させ、"装飾は罪である"とも主張し、当時大活躍をしていた分離派やウィーン工房の装飾性を批判します。
(参考までにオットー・ヴァーグナーのアム・シュタインホーフ教会も御覧下さい)
興味深いことに、ヨーロッパ文明の基本であるギリシャ・ローマのアンティーク様式は、適切に用いるということで否定はしていませんでした。
このロースハウスの大理石の柱は前述したトスカーナ様式で、周辺のミヒャエル教会の前面、王宮の前面に使われている柱との協調性が見られるわけです。
オットー・ヴァーグナーと比べると、アドルフ・ロースが手掛けたものはそんなに多くはありませんが、近代建築の先駆者としてとても重要な建築家と言えます。
ウィーンはとても歴史がある奥が深い街で、
歴史的に言われある様々な重要な物が残って
います。
以前ここでも有名なレストラン「グリーヒェンバイスル」を紹介しましたが、今日はそのレストラングリーヒェンバイスルに属する貴重な中世からのWohnturm(住居塔)に触れたいと思います。
このレストランの界隈は歴史的にもとても
重要な地域で、この写真に見られる石畳のGriechengasseの奥に見えるオレンジっぽいのがレストランの入口です。
でもこの重要な住居塔はここからは見ることができません。
この貴重な住居塔はGriechengasse7番地の中庭に入ると見ることができます。
この塔はグリーヒェンバイスルの正面から見て裏側に位置していて、12世紀のものということになっています。
急こう配の屋根を持つこのゴシックの塔は、当時の城壁の一部であるということになっていて、同時に住居としても利用されていたことです。
つまりこれはレストランよりもはるかに古いものであり、
"住居"としてはウィーンで現存して見られるということでは最古のひとつということになりますね。
ウィーンは普通に歩いていたら見ることができない場所に、このような貴重な物がたくさん残っている・・・本当に奥が深い街です。
こちらはドイツ語でTrompetenbaum
(トロンペーテンバウム),
学名ではCatalpa bignonioides,
日本ではアメリカキササゲ
(アメリカ木大角豆)です。
ノウゼンカズラ科のキササゲ属で、落葉高木です。
原産は北アメリカで、日本には
明治末期に入って来たそうです。
高さ20mぐらいまでになり、葉は10cm~20cmで幅が広いハート型です。
開花時期は6月~7月で、何となくマロニエを思わせるように、垂直上に3cm~5cmぐらいの釣鐘型の白い花をたくさん咲かせます。
右の写真でも見られますが、30cmぐらいまでの細長い莢(さや)がぶら下がっています。
こちらでは観賞用として公園や庭などにたくさん植えられています。
前回のウィーンのちょっと珍しいアングル 9では王宮がテーマになりました。
今回第10弾がこのタイトルではお馴染みのシュテファン大聖堂です。
こちらのシュテファン大聖堂は、ウィーンのちょっと珍しいアングル 7の最初に登場した写真とよく似ていますが、全く別の
場所から撮影したものです。
このアングルはドイツ騎士団教会の中庭に面した建物内部の3階から見た光景です。
手前の建物の屋根には2本の煙突が見え、シュテファン大聖堂の塔がそこから印象的に伸びてます。
一番手前には緑の窓枠が見えていますが、これはパヴラッチェンで
知られざる美しい中庭風景の第1弾で紹介した2枚目の写真を見て頂くとよくわかります。
基本的にこのウィーンのちょっと珍しい
アングルでは、一般観光の皆さんや地元の皆さんもまず気づくことがなく、まず入らない場所から見える新鮮な光景を紹介しているわけですが、
こちらの写真はここを通った人で気づけばどなたでも見られる光景です。
でも個人的にこの2つの建物の間からそびえているシュテファン大聖堂のゴシックの印象的な塔の姿は大好きです。
たくさんの建物がかなりの高さで建っている旧市街地ですので、シュテファン大聖堂の塔がどこからでも見られるわけではありません。
でも特定の場所から見た時に絵になることが多いんですね。
こちらは国立オペラ座です。
でもよ~く見ると手前には柵のようなものがあって、少し高い所から見ていることがわかります。
これは国立オペラ座の裏側を、王宮の
アルベルティーナのアウグスティーナーバスタイから見ています。
国立オペラ座は、リンク道路に面した
正面から写真を取られる方が圧倒的に
多いですが、この後ろ側からは、
正面よりもはるかに荘厳に見えるんですね。
もちろん国立オペラ座が最も荘厳に見えるのは、「国立オペラ座は当時評判が悪かった」でも紹介していますが、前方斜めからみた角度です。
ウィーンのシンボルとも言えるシュテファン大聖堂は12世紀半ばから現在に至るまでの約870年間ずっと歴史を見つめて来ました。
それだけの歴史がこの大聖堂には詰まっているので、じっくり見るとそれなりの時間がかかり、言われあるものが数多く残されています。
その中で大変重要な石細工の説教壇があります。
この貴重な大作は、シュテファン大聖堂の身廊部分の中ほど正面祭壇に向かって左側に見られます。
このKanzel(説教壇)は、1510~1515年にかけて、Breitenbrunnner Kalksandstein・・・ブライテンブルンの石灰砂岩で作られています。
BreitenbrunnはオーストリアのNiederösterreichとBurgenland州の境に横たわるライタ山脈にある人口2000人弱の小さな街です。
この説教壇はずっとアントン・ピルグラムのものだとされていましたが、現在では彼のものではどうやらなかった・・・
ということになっています。
しかしピルグラムの作ではなかったとしても、これは中世末期の芸術的な大変貴重な物であることには変わりません。
よく見るとこれを作ったと思われる本人自らが、柱の下の所に窓から顔を出した状態で描写されています。
一番目立つ説教壇の上部には、4人の教会博士が登場しています。
アンブロジウス、ヒエロニムス、グレゴリウス、アウグスティヌスの4人です。
その4人を支えるかのように、花のように開いた部分があり、その中に支柱が床まである土台に来ています。
その支柱の内部には36cmのキリストの12使徒達が見られ、
その支柱を囲むように、4人の教会博士を支えている花びらから繋がった細めの柱が土台まで来ています。
その細い柱にはカトリックの様々な聖人達が24cmの像で見られます。
これはゴシック様式のとても貴重な素晴らしい説教壇で、細部に至るまで念入りに作られていることがわかります。
この説教壇がある場所は、大聖堂の有料見学ゾーンになりますが、是非時間をかけて観察して頂きたい、絶対に見逃すことができない芸術的大作です。
このオーストリアは、1995年1月1日からEUに加盟しているので、
今年でもう19年です。
その後加盟国も増え、現時点では28ヵ国となっています。
去年「ドイツ語を母国語にしない生徒の割合」でも紹介していますが、
ウィーンはハプスブルグ帝国時代の多民族国家の都でもありましたので、
現在でもかなりの外国人が住んでいます。
その中で、オーストリア以外のEU諸国で生まれて、ウィーンに住んでいる外国人の割合を
紹介したいと思います。
以下は2014年1月1日までの統計です。
※STATISTIK AUSTRIA,ウィーンMA23 より
生まれたEUの国 | 全人数 | % | 男性 | 女性 |
ベルギー | 900 | 0.41 | 447 | 453 |
ブルガリア | 12.528 | 5.77 | 5.532 | 6.996 |
デンマーク | 511 | 0.24 | 225 | 286 |
ドイツ | 46.121 | 21.23 | 22.000 | 24.121 |
エストニア | 246 | 0.11 | 78 | 168 |
フィンランド | 663 | 0.31 | 195 | 468 |
フランス | 4.226 | 1.95 | 1.907 | 2.319 |
ギリシャ | 2.424 | 1.12 | 1.378 | 1.046 |
アイルランド | 445 | 0.2 | 268 | 177 |
イタリア | 6.843 | 3.15 | 3.762 | 3.081 |
クロアチア | 9.894 | 4.55 | 4.661 | 5.233 |
ラトビア | 490 | 0.23 | 191 | 299 |
リトアニア | 546 | 0.25 | 167 | 379 |
ルクセンブルク | 363 | 0.17 | 201 | 162 |
マルタ | 47 | 0.02 | 18 | 29 |
オランダ | 1.586 | 0.73 | 864 | 722 |
ポーランド | 44.467 | 20.47 | 21.375 | 23.092 |
ポルトガル | 865 | 0.40 | 521 | 344 |
ルーマニア | 25.663 | 11.81 | 11.120 | 14.543 |
スウェーデン | 1.104 | 0.51 | 507 | 597 |
スロヴァキア | 12.785 | 5.89 | 4.350 | 8.435 |
スロヴェニア | 2.081 | 0.96 | 994 | 1.087 |
スペイン | 2.666 | 1.23 | 1.295 | 1.371 |
チェコ | 16.618 | 7.65 | 5.988 | 10.630 |
ハンガリー | 19.193 | 8.84 | 8.572 | 10.621 |
イギリス | 3.794 | 1.75 | 2.129 | 1.665 |
キプロス | 163 | 0.08 | 86 | 77 |
合計 | 217.232 | 100 | 98.831 | 118.401 |
10.000人以上はピンク
1.000~9.999人は青
100~999人は黄色
100人以下は緑 で色分けしています。
これによれば、ドイツ人とポーランド人が圧倒的に多いことがわかります。
かなり興味深い統計です。
ウィーンは日中35℃弱という暑い日が続いていて、街中は真夏の雰囲気です。
そんな暑い中で飲料水スタンドが大活躍をしています。
今年は花の咲き始めが早かったので、かなりの花が同時に咲き、散って行きましたが、
今街中に結構見られるのが去年もこの時期に紹介した背丈がある黄色い花です。
ドイツ語ではBlasenesche
(ブラーゼンエッシェ)、
学名でKoelreuteria paniculata、
日本語ではモクゲンジです。
ムクロジ科のモクゲンジ属で、
落葉高木です。
日本では本州の日本海側で稀に見ることが
できるそうです。
高さは15mぐらいまで、この写真のように大きくボールやドーム状に広がって、
たくさんの黄色い花を咲かせます。
開花時期は7月ですが、今年はやっぱり早く咲いたと思います。
ちなみにこの写真のモクゲンジは6月10日の昼ぐらいに撮影したものです。
葉は20~35cmぐらい、花は1cmぐらいの幅で50cmぐらいの円錐状に黄色い花をたくさんつけます。
花が咲いた後には、袋のような実がたくさん見られます。
原産はアジア南東で、中央ヨーロッパには1750年に原産地から入って来ました。
本来の暖かい気候に適しているにも関わらず、こちらヨーロッパの冬にも十分
耐えられます。
最初と下段左側の写真はウィーンの市庁舎公園のもので、下段右側はカールス広場界隈で
咲いているものです。
ヨーロッパにはよく公園に植えられていて、この時期ウィーンによく見られる花です。
ウィーンは魅力的な教会がたくさんありますが、今回はオペラ座のすぐそばにある
歴史的にも重要なアウグスティーナ教会について少し書きたいと思います。
アウグスティーナ教会は、国立オペラ座の裏にあるアルベルティーナ広場のすぐそばにあり、ぽつんと建物から教会の塔が突き出している所です。
この教会は王宮に組み込まれていて、1327年ハプスブルグ家の
Friedrich der Schöne(フリードリヒ・デア・シェーネ・・・ 1286~1330)・・・フリードリヒ美王によって、靴をはいていいアウグスティヌス修道会が呼ばれ、ここに教会と修道院が作られます。
1339年に教会が作られ、1349年に奉納されています。
ちなみにフリードリヒ美王は、当時のGegenkönig(ゲーゲンケーニヒ)という対立王でした。
神聖ローマ帝国では11世紀~15世紀によく対立王(自分こそが正当な王であるということを宣言する王)が本来の王様以外にも存在していました。
当初ゴシック様式のこの教会はポツンと独立して建てられましたが、後の王宮の増築によって王宮に組み込まれる形となりました。
15世紀のウィーンの街並みを参照して下さい。
1631年に皇帝フェルディナント2世は、もっと規律が厳しい、靴をはいてはいけないアウグスティヌス修道会をプラハから呼び寄せ、昔からここにいた靴をはいていいアウグスティヌス修道会はここを追い出されます。
1634年に宮廷教会に任命されています。
その後この教会はバロック化されますが、1785年フェルディナント・ホーエンベルクによってバロック様式が取り除かれ、当時のゴシックをベースにし、窓なども大きくして現在の姿になっています。
こちらは教会内部です。
ゴシック様式ですが、かなりすっきりした内部空間を感じます。身廊は長さ43m,高さ20m、
内陣は40mで高さ24m,幅10mです。
正面祭壇は、Andreas Halbigによるもので1874年から置かれています。
この教会は何と言っても1634年から1918年までの宮廷の教会だったので、ハプスブルグ家の結婚式が執り行なわれた教会としても知られています。
例えば・・・
マリア・テレジアとロートリンゲン公フランツ・シュテファンが1736年に、マリーアントワネットとルイ16世の代理人とが1770年、フランツ・ヨーゼフとエリザベートが1854年に結婚式を挙げています。
また、この教会はGeorg礼拝堂、ロレット礼拝堂や、マリア・クリスティーナの素晴らしいお墓、ハプスブルグ家の心臓が収められているHerzgruftがあることでも知られています。
この教会入口はヨーゼフ広場にありますが、1773年ニコラウス・パッカシの改築のおかげで隠されてしまいましたので、少しわかりにくいです。
1838年ここのアウグスティヌス修道会がなくなりますが、1951年から再びここにはアウグスティヌス修道会が活動を続けています。
去年に続いて今年2014年7月1日よりウィーン公共交通機関が値上げされ、
新料金になります。
以下前料金と新料金の比較です。
チケットの種類 |
2014年6月30日まで |
2014年7月1日より |
Einzelfahrschein (1回券) | €2.10- | €2.20- |
Einzelfahrschein ermäßigt für eine Fahrt (割引一回券) |
€1.10- | €1.20- |
Seniorenfahrschein für 2 Fahrten (シニア割引2回券) |
€2.60- | €2.80- |
Wiener Einkaufskarte (ショッピング券) |
€5.70- | €6.10- |
Netzkarte "24-Stunden-Wien" (24時間券) |
€7.10- | €7.60- |
Netzkarte "48-Stunden-Wien" (48時間券) |
€12.40- | €13.30- |
Netzkarte "72-Stunden-Wien" (72時間券) |
€15.40- | €16.50- |
8-Tage-Klimakarte (8日間券) |
€35.80- | €38.40- |
Wochenkarte (1週間券) |
€15.80- | €16.20- |
Monatskarte (1ヶ月券) |
€47.- | €48.20- |
いわゆる初乗り1回券は10セントの値上がりです。
また1回券を車内の自販機で買った場合は€2.30- になります。
7月1日以降にウィーンに来られる方は注意して下さい。
今年もこの時期恒例なシュテファン大聖堂前のシュテファン広場で、Steffl-Kirtagというお祭りが行われています。
今年は5月29日~6月10日の13日間で、今日が千秋楽というわけです。
地元ウィーンではシュテファン大聖堂を
愛称でSteffl (シュテッフル)と呼んでいます。
キリスト教の一番最初の殉教者である
シュテファヌスに捧げられているという
ことで、そこからStefflです。
ちなみにウィーンにはデパートのStefflもありそれも有名です。
Kirtagとは、Kirchweihで、いわゆる
教会堂開基祭です。
このシュテファン大聖堂のKirtagは2002年から毎年行われていて、
今年で13回目ということに
なります。
もともとこのウィーンのシンボルであるシュテファン大聖堂は、
1945年4月11日から12日にかけての第2次世界大戦の末期には
大きな被害を受け、屋根が焼け落ちました。
これはウィーン市民にとってはとても悲しい出来事でした。
そこからできるだけ早く再建を・・・ということで、1948年にはもう再建された大聖堂で戦後最初のミサが行われています。
そして1952年4月26日には新たなオープニングが厳かに催され、その同じ日に
新しいプンメリンがウィーンに運ばれてきました。
つまりSteffl-Kirtagは1952年からの50周年記念ということで、2002年に行われたと
いうわけです。
色々な屋台などが並び、とても
賑やかなシュテファン広場です。
一見クリスマス市のような雰囲気にも見えるかもしれません。
今日も含めてここ数日32℃~35℃ととても暑い日が続いていますが、
この写真はオープニングの翌日、
5月30日の正午に撮影したもので、
皆さんが上着を着ていることが
わかります。
こちらの気候は西岸海洋性なので、空気は乾燥し、梅雨がないので、ジト~とする不快感はあまりありません。
しかし日差しは日本よりもかなり強く、気温が20℃ぐらいでも太陽の下にいるとかなり暑く感じます。
時期になるとGelsen(蚊)が登場します。特にハイキングをする人が多いので、
森歩きには虫よけが必需品となるわけです。
いくつかの虫よけがありますが、その種類と効果を紹介します。
※Verein für Konsumenteinformation より
この結果によれば、Autan Pretction+が
最高得点であり、
一番効果が高かったようです。
60点以上のものはそれなりに効果があると判断されましたが、
持続時間なども考慮するとやっぱり
Autanでしょうか。
ちなみに4~8時間の持続時間があります。
いずれにしても成分の刺激が強いので
気をつけて取り扱わなければなりません。
ハイキングが好きな方には必需品ですね。
森歩きをされる方は是非参考にして下さい。
商品名 | 得点 |
Autan Protection + | 70 |
Anti Brumm Forte | 66 |
Nobite | 66 |
Anti Brumm Naturel | 60 |
Ballistol Stichfrei | 42 |
Care Pluas | 38 |
Bluti | 30 |
Effitan Ins.-Schutz | 30 |
Aries Anti Mück | 10 |
Hansaplast | 8 |
Zedan | 8 |
Anti-Mückenöl | 2 |
今日はウィーンの街中というわけではなく、ウィーンの郊外や高速道路沿いの畑にこの時期大量に見られる有名な花です。
こちらはドイツ語では
Raps(ラプス)、
学名でBrassica napus、
日本語ではセイヨウアブラナで、
よく菜の花とも呼ばれています。
アブラナ科のアブラナ属で、
二年草です。
原産は北ヨーロッパからシベリアにかけての地域で、日本には明治時代初期に入って来たそうです。
高さは30cm~150cmぐらいで、大量に植えられています。
でもこちらのセイヨウアブラナは日本の在来種とは違うそうです。
花弁は4枚で、0.5cm~1cmぐらい黄色い花を1日~2日咲かせますが、全体では
3週間~5週間ぐらい咲いています。
ローマ時代からすでに知られていて、種子からの採種油を食用油やランプの油などに使っていました。
中央ヨーロッパでは14世紀から栽培されてきました。
食用油の他に例えばバイオ燃料などにも利用されています。
今日は完全に個人的なことで、ウィーンやオーストリアが話題ではないので申し訳ありません。
サルディニアは地中海で2番目に大きな島で、面積約24.000km²、人口約165万です。
この島にはOlbia とCagliariの2つの空港があり、どちらもウィーンからは飛行機で2時間です。
去年はOlbiaから約50km離れた有名なエメラルド海岸に滞在しましたが、今年はCagliariから150km程離れたサルディニアの東側Arbataxに決めました。
ArbataxはサルディニアのOgliastra州にあり、人口1.100人ぐらいの小さな街です。
近くにはTortoliという人口9.000人程度の街があります。
空港からいつもレンタカーでホテルに行きますが、島は車があると断然便利で、島の色々な地域も見ることができます。
とても澄んだ海で、綺麗なビーチです。
部屋からビーチまで徒歩1分です。
Arbataxのホテル近くにある有名所のひとつであるRocce Rosseです。
このメルク修道院は見どころが多いので、ついつい長くなってしまいましたが、
今回が最後のページです。
メルク修道院 1、 メルク修道院 2, メルク修道院 3, メルク修道院 4、 メルク修道院 5
も是非御覧下さい。
時間があればさらに見て頂きたい場所を紹介します。
こちらは修道院正面入り口から見てすぐ右側にある庭園です。
こちらは美しいメルクの街並みです。
修道院からの眺めも素敵ですが、メルクの街並みも綺麗です。
ここは、修道院の入口そばに、下る坂道とその坂道のすぐ右側に階段があり、
どちらからでも降りて行くことができますが、階段をお勧めします。
階段を下りると、すぐこの写真の光景が広がります。
バーベンベルク時代修道院が出来てから、修道院と結びつきながら発展した街で、
1227年にMarktrechtが与えられています。
オーストリア郊外によくある美しい街並みです。
メルクの中心を抜けて、さらにドナウ河沿いへと進むと、車道に出ますが、そこにかかっている小さな橋を渡って、向こう側から修道院を眺めることもお勧めしたいです。
バルコニーと教会がまた別の角度から見られ、修道院の有名な姿です。
ここから船着き場まではもうすぐです!
メルク修道院の続きです。
メルク修道院 1、 メルク修道院 2, メルク修道院 3, メルク修道院 4 も御覧下さい。
螺旋階段を下りると、主祭壇と反対側の西側部分に入ることになります。
入ると進行方向奥には教会の出口らしきものが見えるので最初はえっ・・・
これが教会なの?・・・って思うのですが、左に広がる教会の空間を目にしたら
驚きと感動を覚え、時が一瞬止まります。
息を呑む素敵なバロック空間が広がっています。
写真の一番奥に見えるのが主祭壇です。
この写真ではあまりわかりませんが、修道院の教会部分にはドームがあります。
メルク修道院 1 に全体の写真を掲載していますので御覧下さい。
教会西側に2本の塔があり、その後ろにドームがありますね。
バロック様式の教会は星の数ほどある中で、このメルク修道院の教会は群を抜いています。
大理石の間、図書館とどれも素晴らしい空間でしたが、この教会はさらに次元が違う別世界といった感じです。
この修道院教会は、1702年から始まって最終的にThomas Pauer修道院長時代の1746年に奉納されました。
こちらは主祭壇です。
この主祭壇はGalli Bibienaによるもので、ザルツブルク産
大理石、金箔を施した木、とスタッコ装飾から成り立って
います。
中央にペテロとパウロの2人の聖人が共に手を取り合って
お互いの別れを表しています。
この2人は彼らの人生最後の戦いに向かいます。
その2人の頭上には勝利の大きな王冠がすでに準備されています。
王冠の上には父なる神が、祭壇の一番上には勝利のシンボル十字架が置かれています。
こちらはミヒャエルロットマイヤーによる素晴らしい天井フレスコ画です。
ロットマイヤーは最初に教会ドームのフレスコ画を1717年に手掛け、その後こちらの身廊のフレスコ画を1722年に完成させます。
ロットマイヤーは、 ウィーンのカールス教会の天井画や、ペータース教会の天井画も手掛けています。
これは、ベネディクトが亡くなって、天界に昇って行く場面が描かれています。
黒の衣装をまとったベネディクトがここでは3回登場し、左側から始まります。
ベネディクトが天使によって天界に向かって出発するシーンが一番左で、真ん中の部分は大きな素晴らしいじゅうたんを経由して天界に昇って行くベネディクト、精霊の鳩がシンボルとして登場し、一番右側では天界に入ったシーンが描かれています。
地上の現世界とは全く違った次元の世界がこの教会では演出されています。
この修道院付属教会では、通常昼12:00から15分間 "昼の祈り"というちょっとしたミサが行われます。その時には、パイプオルガンがこの荘厳な教会を豊かな音色で満たしてくれますので、この時間を見計らって教会に入ることをお勧めします。
教会を出ると、中庭を経由し、修道院のショップに入ります。
そこに以前も紹介した バートイシュルの時計を見ることができます。
ショップを出ると美しいアーチ構造の通路を通りながら、再び修道院の中庭に戻ります。
メルク修道院の続きです。
メルク修道院 1 , メルク修道院 2 , メルク修道院 3 も御覧下さい。
バルコニーを抜けると自動ドアがあって、そこの扉を開けると素晴らしい図書館に入ります。
ここは以前撮影が可能でしたが、現在では図書館に関しては撮影が禁止されています。
この素晴らしい図書館はバロック様式で、本棚がそれぞれローマ数字で書かれて16種類に分けられた2階建て構造です。
メルク修道院の蔵書は100.000冊以上あり、この空間には16.000冊ほどしかありません。
空間中央のガラスケースには、貴重な書物が展示されています。
蔵書の中には、手書き書も1.800冊ほどあり、古い物は9世紀初頭のものもあります。
また地球儀と天球儀も置かれ、入り口と出口には医学、哲学、法学、神学を表す2体ずつ計4体の像が立っています。
ここのフレスコ画もパウル・トローガーが手掛けています。
上の写真は図書館のフレスコ画です。
※現在は撮影禁止ですが、以前は撮影できました。これはその以前の時のものです。
彼の特徴である、パウル・トローガーブルーの色を見ることができます。
4つに分かれた人物群を見ることができますがそれぞれ正義、賢さ、勇気、中庸を意味しています。
大理石の間で、外の力の強さを象徴していましたが、こちらの図書館では人間の内なる"徳"を表しています。
それを抜けると、目の前に螺旋階段がある小さな空間です。
ここには19世紀以降の書物が置かれています。
順路に従って進むと、小さな空間にベネディクトの規律書がガラスケースの中に置かれています。この修道院見学最初の部屋の薄紫色の照明と同じ演出です。
さて、これで修道院の見学が終了し、螺旋階段を下りて、いよいよ最後の教会へと入って
行きます。
この眺めは、メルク修道院を見学しないと見ることができません。
ここに立つと改めてこの修道院が断崖の上に建てられていることがわかります。
修道院を真横から見るとわかりませんが、修道院の教会がある西側は、教会を挟むように、そしてまるで教会を守るかのように2つの回廊が崖っぷちまで伸び、それをバルコニーで結んだというヤコブ・プランタウアーの素晴らしいアイデアです。
おとぎ話のようなメルクの街並みが、真下に広がり、とても絵になります。
30歳ちょうどで修道院長に選ばれたディートマイヤーは時代の流れで、この修道院を現在の姿であるバロック様式にと改築させました。
このコンセプトに同調できる建築家を探し出し、オーストリアのチロル出身のヤコブ・プランタウアー(1660~1726)
を見つけ、彼が亡くなるまでひとりで現場監督を行い、バロック化されていきました。
この写真はバルコニーから見た印象的な教会の西側正面部分です。
この教会はペテロ・パウロ教会と呼ばれ、塔の間にイエス・キリストが十字架を持って立ち、その下にはペテロと
パウロが立っています。
このバルコニーからは、ドナウ河とメルク川も見ることができ、メルク川がドナウ河に注がれる手前にヴァッハウ渓谷の船着き場を見ることができます。
このバルコニーに立つと、時の流れを忘れさせます。
メルク修道院の見学では、真っ先にマリア・テレジア女帝と夫のフランツ・シュテファンの肖像画が私達を迎えます。その後いくつかの
部屋が見学コース になっていて、ベネディクトについて、修道院の中世の聖遺物箱や、聖人コロマン、修道院の歴史や、バロック時代について、修道院の活動状況などを見ることができます。
途中で、以前このコーナーでも紹介した、 300年以上前の金庫も見られます。
この金庫を見た後、この写真に見られるようにメルク修道院の1/100の模型があります。
この模型を見ると修道院の全景がよくわかります。
そしたその後に、このメルク修道院の4つの見所が続きます。
それは
大理石の間
メルク修道院バルコニーからの眺め
バロックの素晴らしい図書館
教会
です。
この4か所は見ごたえがあるので、是非しっかりと見て頂きたいです。
こちらは大理石の間です。
実際に大理石が使われている所は限られていて入口部分と出口部分の枠とその上の装飾がザルツブルク産の大理石です。
それ以外はStuckmarmor という化粧漆喰大理石で
作られています。
ここの天井フレスコ画は、パウル・トローガーが
1731年に手掛けました。
それに素晴らしい効果を与えているのが神殿部分で、これはゲターノ・ファンティによるものです。
力の象徴であるヘラクレスが描かれています。この時代のハプスブルグ家の皇帝はマリア・テレジアの父カール6世で、彼はギリシャ神話の強者ヘラクレスをハプスブルグ家によくあてがえています。
このフレスコ画はいわゆるだまし絵になっていて、見方によっては本当におもしろく見えます。
以前にここで メルク修道院のだまし絵のフレスコ画として紹介していますので、
御興味があれば参照して下さい。
この時期にはウィーンからの1日観光でよくヴァッハウ渓谷に行きます。
ヴァッハウ渓谷は私も大好きな場所で、世界遺産にも登録されていて、個人的にもよく出かけます。
通常の1日観光では、午前中にメルクの修道院を見学します。
このメルクの修道院に関してすでにこのコーナーでも何回か話題にしていますが重要なバロック建築です。
メルク修道院単独では世界遺産ではありませんが、ヴァッハウ渓谷のメルク~クレムスまでということで世界遺産に入っています。
メルク修道院はウィーン中心部から約90km西に離れた所にあり、ドナウ河沿いの断崖の上から、まるで街を見下ろすように建っています。
街の名前もメルク(Melk)で、またMelk川がドナウの本流に注がれます。
この修道院は重要なバロック建築でもあり、さらにこの場所は歴史的にもとても重要な位置にあります。
この辺りのドナウ河は古代ローマ帝国時代国境でもあり、ドナウ河沿いにはウィーンのように駐屯地が多く築かれました。
このMelkもローマ時代からの集落がありました。
このMelkは831年に"Medilica"という名で最初に登場しますが、ハプスブルグ家の前に栄えた中世のバーベンベルク王朝の最初の居城が置かれた場所でもあります。
カール大帝時代この辺りはOstmark(オストマルク...東部辺境地)と呼ばれ、9世紀末からマジャール民族(ハンガリー民族)の襲来に備える必要があったわけです。
そこでバイエルンの貴族バーベンベルク一族がオットー2世皇帝から選ばれて、辺境地を守る伯爵という意味で、辺境伯(Markgraf)という皇帝のすぐ下のポジションでこの辺りを守る砦の城主の役割りを担うわけです。
バーベンベルク王朝は最初のレオポルド1世から最後のフリードリヒ2世まで,976年~1246年までの270年続いた王朝で、この中世の時代にウィーンを始めオーストリアのかなりの部分が発展していきました。
その最初の君主辺境伯(Markgraf)のレオポルド1世の時代からすでに、亡くなった一族に祈りを捧げる宗教的コミュニティのようなものがありました。
2代目の君主のハインリヒ1世の時代には、ドナウ河に沿いながら東へとTullnにバーベンベルクの居城が移されていき、その後クロスターノイブルク、そして12世紀半ばにはウィーンに彼らの宮廷が移され、ウィーンは飛躍的な発展をすることになります。
しかし、宗教的コミュニティはこのMelkに留まっていたようです。
そこで5代目の君主レオポルド2世の時代にこの場所を修道院とし、ベネディクト派の修道院として1089年から現在に至っています。
修道院の見学は個人で見ることも可能ですし、修道院が提供するガイドツアーに入ることもできますが、ドイツ語、英語、イタリア語、フランス語で、残念ながら日本語はありません。ここは説明があった方が遥かにおもしろいです。
現在の修道院は18世紀に改築された素晴らしいバロック様式です。
修道院の見学はこの写真に見られる中庭を通り抜け、その後すぐ左側に見られる皇帝階段を上がって始まります。ここで係りが入場券をチェックします。
たくさんのグループが待っていることがあると思いますが、個人で見学される場合は構わず追い越して行って構いません。
(ガイドツアーの場合は時間が決められています)
この中庭は広々とした空間が印象的で、意図的に台形に作られているため、かなり奥行きがあるように感じられます。
この中庭空間は縦84m×横42mです。