シューベルトは、1797年1月31日にウィーンで生まれました。
この写真はシューベルトの生家で、ここの日本で言う2階でシューベルトは生まれます。
シューベルトのお父さんは学校の先生でした。
この建物は全部で16世帯あったいわゆるアパートであり、シューベルトのお父さんはここで住居と学校のスペースと2つの場所を借りていました。
お父さんの学校はマンモス学校で1クラス約80人の子供達が通っていて、2クラスありましたので、160人以上の子供達がこのせまい所に通っていたわけです。
シューベルトのお父さんテオドールとお母さんマリア・エリザベート・フィーツの間には
14人の子供が生まれますが、9人が5年以内に他界し、5人が成人しますが、シューベルトは4男でした。
シューベルトの兄3人は、お父さんと同様教師になります。お父さんは、音楽の造詣もあり同様に一番上のお兄さんイグナーツも音楽の造詣あり、そんな環境からシューベルトは幼少の頃から音楽に触れていました。
この場所は居心地がよかったわけですが、学校が大きくなっていったので、引っ越しをせざるおえませんでした。
この生家にはシューベルトが4年半住みました。
ここは博物館として、実際に
シューベルトが生まれた場所と、
当時の隣接していた住居も利用して一般公開されています。
これはシューベルトのめがねです。
シューベルトは寝る時もめがねを
かけていたと言われています。
それは起きてから、すぐにひらめいた曲を書くためでした。
めがねはシューベルトの一種のトレードマークですね。
こちらは
「糸を紡ぐグレートヒェン」の自筆譜のファクシミリです。
とても丁寧に書かれています。
でもモーツァルトと違って、シューベルトの楽譜を見ると
(他の作曲家はたいていそうですが)、かなりの訂正箇所を見ることができます。
(この写真では見られませんが)
シューベルトはウィーン少年合唱団の前衛でもあるコンヴィクトで学んでいます。
音楽的な才能はあったようで、サリエリがシューベルトの才能を評価しています。
その後、兵役から免れるため、シューベルトも17歳の時に、お父さんの学校を手伝える資格も取っています。
もっともあまりやる気はなかったようです・・・。
音楽家としては、何か重要なポストに就いたわけでもなく、作品が出版されたこともなく、それなりに彼の才能は知られ、作曲で収入もありましたが、生前中音楽家として成功したというわけではないでしょう。
ベートーヴェンが亡くなった1827年の翌年1828年にシューベルトも31歳という若さでこの世を去るわけですが、ベートーヴェンが神格化されると同時に、シューベルトの歌曲に対しての評価が高まり、「歌曲の王」として名を残すことになります。
特にドイツリート(ドイツ歌曲)をたくさん作曲しました。
でも歌曲以外にも室内楽、ピアノ曲、教会音楽、交響曲、オペラ等幅広く作曲しています。
シューベルトは発想が次々と浮かんでくる天才肌だったようですが、個々の楽器については本人がそこまでうまく演奏できたわけではなかったようで、特にピアノ曲などは技巧的にかなりくせがある・・・と言われています。
ウィーンの街中にはシューベルトの跡がたくさん残っています。
いきなりですが、先日ウィーンで恐竜展
「World Of Dinosaurs」
(ドイツ語で Die Welt der
Dinosaurier)
を見に行って来ました。
この恐竜展は、2013年12月26日~2014年2月9日まで、ウィーン3区のMARX HALLEで開催されています。
これはウィーンの常設的博物館ではなく、単発の展示会で、50体の様々な恐竜が解説と共に実物大で展示されています。
会場には、恐竜の鳴き声が流され、それぞれの恐竜が人工的な植物と共に砂の上に配置され、同時に化石なども展示されていました。
こちらはティラノサウルス REXです。
今から6800万年前~6500万年前に生息していた肉食恐竜で、体長13m,体重6.8トンです。
REXは王様という意味で、
ティラノサウルス属の唯一の種として認められています。
こちらは大きなディプロドクスです。
1億5500年~1億4500万年前、
体長20~35m、体重は40トンぐらいまでです。
このディプロドクスは27mです。
細めの体と長いシッポが特徴です。
こちらはセンセーショナルな
展示品です。
今から約8000万年前のセグノサウルスのすでに石になった卵の巣で、24個の
石になっているたまごが見られます。
この時代の重要な出土品のひとつに数えられています。
個人的に恐竜には全く詳しくないのですが、想像もつかない昔に実際にこのような大きな恐竜が地球上に生息していた・・・これは一種のロマンを感じます。
この恐竜展はうちもそうですが、家族連れがとても多く訪れていて、こちらでも恐竜はとても人気があるようです。
ウィーン9区の一角に地元でよく知られたStrudlhofstiege
(シュトゥルードゥルホーフシュティーゲ)という、Pateurugasse と階段の名前と同じStrudlhofgasseの高低差を結ぶ絵になる美しい階段があります。
こちらがそのStrudlhofstiegeです。
Währingerstraßeから現在のこの階段に向かって1808年から通りがありました。
このちょっと小高い所をPeter Strudel というオーストリアの彫刻家・画家が所有していました。
彼はここに1690年にStrud(e)lhofという名のプライベートの絵の学校を設立します。
この学校は評判がよく、1705年には皇帝アカデミーに格上げされ、Strudel が亡くなる1714年まで運営されていました。
1907年、当時のウィーン市長カール・ルエーガーの時代に、この小高い場所から、現在のLiechtensteinstraßeに向かって階段を伴った歩行者用の通路を建設することが決められました。
この階段はTheodor Johann Jaegerのプランによるもので、Mannersdorf (ブルゲンラント州のライタ山脈にある街)からの石灰岩が使われています。
ちなみにウィーンのリンク道路上の荘厳な建造物にもここからの石灰岩が多く使われています。
1910年11月29日にこのStrudlhofstiegeのオープニングセレモニーがありました。
今年で104年目にあたるわけです。
このStrudlhofstiegeはユーゲントシュティール様式のとても重要な建造物です。
歩行者用通路が、右へ左へと
作られていて徐々に坂を上れる
ような構造です。
2つの泉も組み込まれ、全体的にシンメトリーに作られています。
この周辺空間にとても自然に、そして美しく溶け込んでいます。
1946~1948年に、Heimito von Doderer (ハイミート・フォン・ドーデラー)によって書かれた小説「Die Strudlhofstiege :oder Melzer und die Tiefe der Jahre」は1951年に出版され、とても知られています。
ここはウィーンの中心部からはちょっと離れていますが、見る価値は十分にあります。
夜のウィーンの街も素敵です。
かなりの重要な建物や記念像等がライトで照らされています。
新宿のようなギンギンのネオンサインが見られることは絶対にありません。
建物が様々な建築様式で作られ、荘厳な建造物が多いため、普通に下から照らし出すだけで建物が十分美しく映えます。
こちらは国立オペラ座です。
リンク道路最初の大建造物としてプランされたもので、ルネッサンス様式の堂々とした姿です。
2013年8月18日に「国立オペラ座は当時評判が悪かった」というタイトルで話題にしていますが、国立オペラ座はこの斜め前方から後ろを見る時に、建物が荘厳に見えるようにちゃんと計算して作られていました。
正面よりもこの角度からの写真が圧倒的に多いですね。
こちらは2013年10月5日にも書いた「ウィーン楽友協会」です。
やはり下から照らし出すライトアップで、暗闇に浮かび上がっているように見えます。
こちらはギリシャ古典様式をベースにルネッサンスを取り入れた、いわゆる「音楽の神殿」をコンセプトに
しました。
今年のウィーンフィルニューイヤーは、ダニエル・バレンボイムさんが、2009年に続いて素晴らしいニューイヤーを聞かせてくれました。
このような歴史的建造物のライトアップは、ヨーロッパの建築様式と見事にマッチして、昼間見ても素晴らしいですが、ライトアップされるとまた浮かび上がってくるように演出されています。
日本の大きな街と比べれば、ウィーンの夜はそんなに明るくないですが、しかし多くの建物がライトアップされているので、それが素晴らしい効果を与えます。
昼間見てる時と夜のライトアップはまた別世界ですね。
ウィーンは音楽の都ですから、これだけの作曲家が集まった街は他にないでしょう。
作曲家の住居、記念像などが至る所にあります。
以前もここでは音楽家に関することはよく話題にしています。
ベートーヴェンに関してはすでに「中央墓地」、「最後の住居」、「第9交響曲の家」などについて書きました。
今日は2つのベート―ヴェン記念像について書きたいと思います。
こちらはウィーン中心に近いBeethovenplatz
(ベートーヴェン広場)にある
有名な記念像です。
ウィーンに音楽に興味を持って
来られる方はたいてい見る記念像でしょうか。
この広場は、19世紀後半リンク道路が建設され、その両側には様々な建物が建てられていきます。
もともと城壁があった頃は、その城壁の外側はGracisと呼ばれた、敵からの見通しを良くするため何も建ててはいけない地域だったわけです。
リンク道路時代にその当時のGracisにリンク道路自体を始め、色々な建物が建てられる中、このベートーヴェン広場には何も建てられませんでした。
そこで文字通り広場となります。
この記念像はCaspar von Zumbush (カスパー・フォン・ツムブッシュ)というマリア・テレジア像やラデツキー将軍像なども手掛けた有名な彫刻家によるもので、1880年に序幕されています。
こちらはよく知られている散歩をしているベートーヴェンの記念像です。
このベートーヴェン像がある場所は、中心からかなり離れたハイリゲンシュタット公園にあります。
ここは、1781年にローマ時代からの鉱泉が発見され1875年まで使われていた、Heiligenstädter Bad (ハイリゲンシュテッター・バート)と呼ばれた療養所でした。
ベートーヴェンは、難聴の治療として当時の医師の勧めに従ってこの場所で療養をすることになります。
ここから歩いてすぐの所に、「ハイリゲンシュタットの遺書の家」というベートーヴェンが32歳に遺書を書いた有名な住居があります。
ここをウィーン市が1900年に現在に見られる公園にしました。
この記念像は、1910年 Robert Weigl (ロベルト・ヴァイグル)というオーストリアの彫刻家によって手がけらたものです。
手を後ろに組んで、ゆっくり歩くベートーヴェンが表されています。
彼の左ポケットに五線紙が入れてあります。
ベートーヴェンは自然を好み、散歩が日課のひとつでも
ありました。
自然の中に自分を置き、耳の回復を願い、同時に様々な曲の霊感を受けました。
この地域はベートーヴェンが特に好んだ地域で、彼が滞在した場所が多く残されています。
ベートーヴェンはドイツ人ですが、ウィーンにはモーツァルト以上に足跡を残しました。
ウィーンの街はバロックの都とも言われるぐらいにバロック建築が多く見られます。
2013年3月13日に「ウィーンはバロックの都」、
10月15日に「ベルヴェデーレ宮殿」でバロックのことについて触れています。
でもかならずしも建築が全てというわけではありません。
バロック曲線は色々な所に見られます。
こちらはアウグスティーナ教会の椅子に見られる装飾です。
典型的なバロック曲線を見ることができます。
バロックは16世紀終わり、イタリアから始まりました。
ここオーストリアでは1630年ぐらいからマリア・テレジアの父カール6世が亡くなる
1740年ぐらいまででしょうか。
バロックの視覚的特徴は、左右対称(シンメトリー)、豊かな装飾、歪んだ曲線、それから何と言っても楕円形です。
ウィーンで重要なバロック建築と言えば、やっぱりシェーンブルン宮殿やベルヴェデーレ宮殿が最初に登場するでしょうか。
こちらはシェーンブルン宮殿の
階段です。
何気ない所にでもこのように
バロック装飾が使われています。
大きな建造物だけではなく、このような細部に至るまで、バロックの要素を見ることができるわけで、それらが全て融合し、バロックの世界を演出しているわけです。
新聞記事でちょっとおもしろいデータが掲載されていました。
男女関係において、
男性が女性に望むこと・・・
女性が男性に望むこと・・・
がそれぞれどういうものかという統計です。
こちらは日本と比べると意思をハッキリ表現しますね。
曖昧な表現は誤解をよく招きます。
2013年2月5日に「料理がしょっぱい?」ということについて書きましたが、
まさに辛いのか、甘いのかハッキリする・・・
はいかいいえをしっかり表現する感覚と似ていると思います。
以下男女別でそれぞれ相手にはこうであって欲しい・・・という統計です。
※GfKからのまとめ
男性が相手に望むこと | 割合(%) |
関係を築いていく能力がある | 78% |
浮気をしない | 78% |
清潔であること | 75% |
相手をよく理解できる | 75% |
知性があること | 71% |
思いやりがあること | 70% |
明るいこと | 67% |
仕事を持っていること | 66% |
女性が相手に望むこと | 割合(%) |
浮気をしない | 74% |
清潔であること | 70% |
明るいこと | 70% |
関係を築いていく能力がある | 65% |
相手をよく理解できる | 64% |
愛情こまやかとやさしさ | 61% |
知性があること | 61% |
常に自分側にいること | 57% |
女性から見て男性はかっこよくなくていいので、浮気をしないことが重要で、容姿にこだわる割合はたったの20%です。
男性から見て女性は料理ができなくてもいいという意見が多かったようです。
こちらではいっしょに人生を歩む・・・ということをよく聞きます。
家庭でも、また結婚していなくても、パートナーといっしょに年齢を重ねて行くということは人生の中でも重要と考えられています。
今年は現時点で日中の気温がまだマイナスには下がっていません。
そういう意味では暖かめのこの時期ということになるでしょうか。
雪も今年はとても少ないですね。
先日雪が降った時にウィーンの森に行きました。
ウィーンの森は、「森」という名称ですが、ヨーロッパアルプスの一番端に位置するわけで、アルプスですが「Wienerwald ・・・ウィーンの森」と呼ばれています。
アルプスはそれぞれの地域によって、~アルプス、~谷、~グループ等と細かく名称が
別れていて、それを全部ひっくるめて「Alpen (アルペン)」とドイツ語で言われ、
いわゆるアルプスです。
ウィーンを北、西、南と3方向から囲むウィーンの森は見所もとても多いです。
このコーナーでは「ハイリゲンクロイツ修道院」、「マイヤーリンク」 ,「ゼーグロッテ」などと見所を紹介していますが、同じウィーンの森南にあるリヒテンシュタイン城も
有名です。
雪景色のウィーンの森も素敵です。
ウィーン市よりも標高が高い所にあり、ウィーンは白くなくてもウィーンの森に来ると雪が積もっている・・・ということはよくあります。
このリヒテンシュタイン城は、ウィーンの森南に位置するMariaenzersdorfにあります。
名前の通りオーストリアの西とスイスの境にあるリヒテンシュタイン公国の
リヒテンシュタインです。
リヒテンシュタイン公国がずっと今の場所にあったような気がしますが、このウィーンの森のこの場所が、はあまり知られていませんがリヒテンシュタインの発祥地です。
1130~1140年にHugo von Petronell-Liechtensteinがこの場所に塔と礼拝堂を備えたお城を作らせました。
Thermenlinie という温泉ラインに沿ったちょっとした要塞を意味しました。
その直後彼はHugo von Petronell von und zu Liechtensteinと名乗っています。
この人物がリヒテンシュタイン家の最初であるわけです。
13~15世紀にかけて何回も拡張されていきました。
14~19世紀初めまではここの持ち主が頻繁に変わって行きました。
ここの建築素材はBurgenland州にある、St.Margarethen(ザンクト・マルガレーテン)という有名なローマ時代の石切り場からのものが使われています。
1683年のオスマントルコの2回目包囲の時にここは壊されて、それ以来廃墟となっていました。
1808年に再びリヒテンシュタインのヨハン・リヒテンシュタインがこの廃墟場を入手し、中世の頃から残されていた土台部分などをそのまま使い、1836年に現在の形に再建させました。
12世紀のロマネスク様式と19世紀のロマン主義的要素が混ざった
とても情緒あるお城です。
ここは見学可能で3月~10月までは毎日オープンしています。
ちなみにリヒテンシュタイン公国は、18世紀の初頭、神聖ローマ帝国から自治権を
与えられて、現在の場所に拠点がありますが、ハプスブルグ家がウィーンを拠点に勢力を
拡大していく中で、リヒテンシュタイン家はハプスブルグ家と共に歩み、ハプスブルグ家のとても信頼された家柄としてウィーン市内にも宮殿があります。
またウィーンにはリヒテンシュタイン美術館もありますね。
こちらは雪景色のウィーンの森の散歩道です。
このリヒテンシュタイン城界隈は、ハイキングにも人気があるスポットです。
ウィーンの森はたくさんのハイキングコースが整備されています。
天気がいい時には冬だって歩いている人が多いです。
雪景色のウィーンの森もとても素敵ですね。
ウィーンのリンク道路には荘厳な建造物が並んでいるわけですが、その中でゴシック様式の市庁舎はとても印象的です。
何と言っても市庁舎のクリスマス市は華やかで、このコーナーでも紹介しました。
この市庁舎の地下にはRathauskeller (ラートハウスケラー)という地元で
有名なレストランがあります。
市庁舎を正面に見て、建物の一番右端にレストランの入り口があります。
Piaristenkeller (ピアリステンケラー)でも紹介しましたが、ドイツ語でKeller というと地下室という意味が一般的でしょうか。
入口から階段を下りて行くと、通路はさらに奥へ伸びて行きます。
ここの一番一般的な空間はこの写真でも見られる「Rittersaal」(リッターザール・・・騎士の間)でしょうか。
市庁舎の地下というと、何となくお役所の地下食堂的なイメージがあるかもしれませんが、ここは全く違います。
この大きな空間はアーチも印象的で、初めてここに入った方は誰もがカメラを向けたくなる空間です。
騎士の間以外にも、
Salon Ziehrer,
Lannner/Lehar Saal,
Grinzinger Keller,
Augstiner Stüberlといった
いくつかの空間があります。
市庁舎は1883年にFriedrich von Schmidtという
リンク道路時代の建築家によって作られました。
ちなみに市庁舎の裏側に彼の記念像が立っています。
Rathauskellerはその後1899年に当時のウィーン市長Karl Lueger(カール・ルエーガー)の時にオープンし、それ以来味に定評があるレストランとして地元から観光の皆さんまで親しまれています。
私も数回ここでウィーンの市長さんが食事をしているのを見かけたこともあります。
国立オペラ座からは若干遠いですが、でも知っていて損はないレストランです。
歴史ある街を歩くということは楽しいことですね。
ウィーンの街を歩くと様々な発見があります。
一見意味がわからないものが多く見つかります。
今日はそんな物を2つほど紹介したいと思います。
これは結構分かり易いと思いますが、たいていの方はこんな所には注目しないと思います。
これはウィーンの真ん中に立つシュテファン大聖堂の外壁に見られる当時の墓地の照明です。
現在の私達の時代には考えられませんが、こちらは基本は今でも土葬です。
中世から亡くなった人を教会のすぐそばに埋葬するという習慣があり、ウィーンの、当時城壁に囲まれていた現在のリンクの
内側にもたくさんの教会がありますが、それぞれの教会には教会付属の墓地がすぐ教会の前に作られていました。
ウィーンの中心部では、最初にルペルト教会とペータース教会界隈に墓地が作られました。
その後、このシュテファン大聖堂、ミヒャエル教会やショッテン教会にも教会付属の墓地が作られていきました。
18世紀のマリア・テレジア女帝時代、やはり衛生上の問題から、城壁内の遺体埋葬を禁止させ、そして18世紀終わり長男のヨーゼフ2世の時代に中心の墓地が取り払われて、第2城壁沿いに墓地を移転させたわけです。
これは当時シュテファン大聖堂付属の墓地を照らしたいわゆる照明で、ロウソクが入れられましたが、もっと前は、獣の脂を使っていました。
こちらは何でしょうか?
古い建物の中に、特に日本で言う1階の入口界隈によく
見られる物です。
見た感じねずみの穴のような
雰囲気ですね。
穴の手前に鉄状の物が地面に固定されているのがわかります。
これはヨーロッパに住んでいる人にとってはお馴染みかもしれない「靴のドロ落とし」です。
今でも自分の住居の中では靴を脱がないで生活している人が多いウィーンです。
私が10年以上住んでいた住居の大家さん一家も家の中では靴をはいて生活をしていました。
靴を家の中で履く・・・ということは私にとっては絶対にあり得ない習慣です。
でもこのような物が古い住居にはたくさん見られ、実際に現在でも使ってる人がたくさんいるわけですね。
前回2013年10月08日に「ヨーロッパから見た日本という国」というタイトルで、
日本語ということを考えてみました。
今回は、また別の角度から日本を見たいと思います。
私達日本は、島国であることは誰でも知っています。
現実的に隣接している国はないわけです。
当たり前ですが外国に行こうとすれば海を越えなければなりません。
でも戦争でアメリカに負けたことがいったいいつまで影響を与え続けるのか個人的に不思議でなりません。
日本本来の文化、考え方というものがあるはずですが、しかしどんどんアメリカナイズされていくことが現実です。
実際英語から、日本でしか通じないカタカナ読みのくずれた英語表現も、日本語としてどんどん増えていると思います。
決してアメリカがいけない・・・といっているわけではありません。
私は前にも書きましたが、日本人としてのプライドも持っています。
日本はどこにも隣接していない、ある意味では孤立国であり、なおかつそれなりの経済大国であるわけですからもっといい意味で国際的に強くなるべきだと思います。
ここオーストリアは8ヵ国に囲まれながらの永世中立国という特徴を持っています。しかも「軍事的」ということが大きな柱でもあり、いかなる軍事同盟にも加盟せず、各国の軍隊も一切駐留していないわけです。
それでいて、オーストリアは自国の軍もあり、ウィーンには国連都市も置かれ、スイスと違い、EUに入っている、通貨もユーロが使われている・・・
とても柔軟な永世中立体制であると思います。
私は政治はわかりませんが、でも私達日本こそ永世中立国にふさわしいのではないかと思います。
日本は国際社会で見れば、いい意味でも悪い意味でも独特の国です。
例えばアメリカ軍には、いったいいつまで日本にいてもらわなければ
いけないんでしょうか?
日本にいてもらわなくても、日米関係はうまく保てるのではないのでしょうか。
オーストリア体制が絶対にいいと言い切るつもりはありませんが、
この国は自国のためにも、なおかつ他の国のためにも永世中立であるべきという考えです。
日本こそ永世中立国が相応しいと思いますし、そうなるべきだと思います。
去年2013年6月17日に「ウィーンの自転車文化」、
6月20日に「ウィーン シティバイク」、
7月11日に「ウィーンの電動自転車シェアリング」などと
このコーナーで自転車を話題にしています。
ウィーンの街では、冬は少ないですが、自転車で走る人がたくさんいます。
リンク道路もちゃんと自転車ゾーンが区別されています。
こちらの新聞に、どのくらい自転車で走る人がいたかの統計が載っていました。
これは2012年と去年2013年の統計です。
※ÖSTERREICH より
月 | 2012年 | 2013年 |
1月 | 58.735 | 44.499 |
2月 | 42.190 | 46.576 |
3月 | 176.955 | 90.644 |
4月 | 204.635 | 254.617 |
5月 | 308.736 | 288.511 |
6月 | 330.271 | 311.768 |
7月 | 315.668 | 438.216 |
8月 | 365.305 | 343.061 |
9月 | 278.138 | 243.841 |
10月 | 189.166 | 208.204 |
11月 | 120.894 | 133.994 |
12月15日まで | 34.392 | 48.266 |
やはり夏が一番多く自転車を使っていますね。
でも、冬でも自転車で移動する人はかなりいることがわかります。
前回の中央墓地シリーズ「ウィーンの中央墓地 3」は2013年10月28日に書き、
ヨハン・シュトラウス(父)に触れました。
今日は32A区にはない有名人としてCarl Czerny ・・・カール・チェルニー(日本ではツェルニーとしての方が有名でしょう)のお墓です。
ツェルニーは、1791年2月21日にウィーンのチェコ系音楽家の一家のもとに生まれました。
父からピアノの手ほどきを受け、早くから音楽の才能を見せ、3歳でピアノを弾き、7歳で作曲をしたといいます。
10歳の時には素晴らしいピアニストでありました。
最初の公開演奏会は1800年でした。
ベートーヴェンは才能あるツェルニーに感銘を受けて弟子にします。
さらにフンメル、サリエリからもレッスンを受けます。
ベートーヴェンのピアノ協奏曲「皇帝」はツェルニーが初演の時にピアニストとして演奏しています。
ツェルニーは優れたピアニストでしたが、演奏活動を続けず、作曲家・理論家としての道を優先します。
これだけピアノを弾く人が増えてきた・・・しかし基本的な練習をするための作品がないことに気づいた彼は、様々な練習曲を書くことになります。
ピアノを習う人であれば、ほぼ誰でも必ずやお世話になるツェルニー練習曲シリーズはあまりにも有名です。
このツェルニーの弟子のひとりにリストがいます。
ツェルニーは生涯ほぼウィーンに留まり、独身で66歳で1857年7月15日にウィーンで亡くなりました。
ピアノ教育、理論という観点から見ると、ツェルニーが残した業績は偉大です。
彼の大部分の自筆譜はウィーン楽友協会に保存されています。
ウィーン中心から車で22km南へ走ると、Hinterbrühl(ヒンターブリュール)というウィーンの南の森の街があります。
Hinterbrühlは、シューベルトが「菩提樹」の発想を得たというゆかりのレストラン「Höldrichsmühle」(ヘルドリッヒスミューレ)もあります。
そこから2.5kmしか離れていない所に、6.2km²もある「Seegrotte」(ゼーグロッテ)というヨーロッパ最大の地底湖があります。
Seeというのはドイツ語の男性名詞で使った場合は「湖」という意味で、Grotteは「洞穴」と
いうような意味です。
つまり洞穴の中にある湖・・・みたいな意味です。
ここは1848年にオープンした元々は石膏鉱山でした。
当時のこの土地の所有者は、ここに泉を作ろうと、地下に向けて掘り始めたら
地下にはたくさんの石膏がありました。
忙しい時には約80人程の工夫さんが、けたたましく走るトロッコと仕事をしていました。
ここで採掘された石膏は肥料などとして売られていたそうです。
1912年に水脈を掘り当て、2000万リットルという大量の水が入り込んで来ました。
その後色々と努力をしましたが、結局閉山されました。
その後1932年にここを観光用として使おう・・・ということになり、足場を整備し、配電設備行われと・・・観光用としてスタートしました。
その後、第2次世界大戦の末期、ナチス軍がここを発見し、何とジェットエンジンを搭載した飛行機の製造工場になりました。
ナチス軍は、1944年5月~1945年3月までここで飛行機の製造をしていました。
驚くことに彼らは、排水ポンプを設置し、水を外に抜き出しながら仕事をしていたのです。
その後整備され、1948年から現在に至っています。
ウィーンの森と地底湖というのは結びつきがないですが、ここはとても神秘的で、鏡のような水面を見ることができます。
ウィーンの街は23区で成り立っていますが、その中で最大の市場といったらNaschmarkt・・・ナッシュマルクトです。
ナッシュマルクトは、現在のウィーン6区に位置し、
Rechte Wienzeile とLinke Wienzeileの間にあり、
ナッシュマルクトの下にはウィーン川が流れています。
ナッシュマルクトは1780年、当時まだ河川工事が行われていなかったウィーン川の右岸(カールス教会側)に、農家の市場のような形で乳製品などが多く売られていました。
オフィシャルには「Kärntnertor Markt・・・ケルントナートーアマルクト」と呼ばれ、Wiedner Hauptstraße、Resselgasse、Operngasse,Treitlstraßeの領域にあり、
現在のカールス広場辺りに位置していました。
1780年以前は旧市街地のFreyungに市場があり、Aschenmarkt(アッシェンマルクト)と呼ばれ、果物や野菜を売っていました。
でもここのショッテン修道会とウィーン市の争いがあったことから、1780年にFreyungからこちらに移ったわけです。
1899年にオットー・ヴァーグナーの市営鉄道(Wiener Stadtbahn)が開通し、ウィーン川の河川工事と地下化が行われ、1905年に現在の場所に移ったわけです。
ナッシュマルクトの広さは2.3ヘクタールもあり、
長さ約600mです。
メイン通りが2本あり、いわゆる市場側と、ちょっとしたレストランが多く並んでる側とあります。
ここを歩くと、必ずと言っていいほど、店の人から「こんにちは、とかニーハオ」なんて声を掛けられます。
ナッシュマルクトの延長上には毎週土曜日だけ行われる、好例ののみの市があります。
この広場は、ウィーン旧市街にローマ時代からあるHoher Markt (ホーアー・マルクト)が
中世の頃に人口に対して十分な広さではなくなっていたので、1234年に新しく広場をここに作りました。
19世紀までこの広場では、小麦粉や穀物が売られていたので、Mehl Markt(メール・マルクト)などとも呼ばれていました。
ちなみにこの広場には,Mehlgrube(メールグルーベ)と呼ばれた建物がフィッシャー・フォン・エアラッハによって1697年にとても目立って建てられました。
その2階はホールになっていて、そこでは若きハイドン、モーツァルトやベートーヴェン等がコンサートを行っていました。
この広場の一角に、ハイドンが晩年住んだ場所があります。
ハイドンはオーストリア人での
3大クラシックの作曲家のひとりです。
2013年11月22日にアイゼンシュタットのハイドンザールについて書きましたが、エスターハーズィ家に仕え、そこで安定した多忙な生活を送ります。
58歳の1790年、エスターハーズィ―家の楽団が解散し、ハイドンは年金生活に入りますが、その後、イギリスにも2回行き、大成功を収めます。
イギリスに住むことも考えたハイドンですが、結果的にウィーンに戻り、大きな家を購入します。そこはハイドンが1797年から1809年に亡くなるまでの12年間住んだ彼の最後の家です。
イギリスから帰ってきてこの家に引っ越してくるまでの1795~1797年にこのNeuer Marktに住み、ここで有名な「皇帝讃歌」を作曲しました。
ここでいう皇帝とは「フランツII/I世」で、マリア・テレジアの孫にあたるウィーン会議時代の皇帝です。
この曲はフランツ皇帝の誕生日の1797年2月12日に初演され、フランツ皇帝に捧げられました。
「神よ、皇帝フランツを守りたまえ」(Gott erhalte Franz den Kaiser)とも呼ばれる
皇帝讃歌は、このオーストリアのための国歌としての意味もありました。
ハイドンがイギリス滞在中にイギリスの国歌を聞いて、感銘し、我がオーストリアにも国歌があれば・・・と思ったようです。
作曲はハイドン、詩はレオポルド・ハシュカです。
とても癒されるようなこの旋律は何と1922年以来現在のドイツの国歌になっているという悲しい実情です。
ハイドンの弦楽四重奏第77番の2楽章にもこの旋律が用いられています。
この皇帝讃歌は、オーストリア帝国の国歌として、その後オーストリア=ハンガリー帝国崩壊まで実際に使われていました。
現在のオーストリアの国家は、「山岳の国、大河の国」
(Land der Berge, Land am Strome)です。
2013年9月22日付で美術史博物館の天井画を紹介しました。
その美術史博物館の吹き抜け大階段ホールの天井画は見るものを圧倒します。
たいていここを訪れる方は、2階の絵画コーナーがメインですので、通常エレベーターを
使用しない限り、この大階段を上がって絵画コーナーに足を踏み入れます。
その時に天井にはその「ルネッサンス讃歌」が迎えてくれるわけです。
今日ここで紹介する天井画は、中2階にあるKunstkammer(クンストカンマー・・・芸術の小部屋)にある天井画です。
この写真は天井画全体がわかりやすいような向きで掲載しています。
この天井画は、Julius Victor Berger(ユリウス・ヴィクトーア・ベルガ―)が手掛けた、「ハプスブルグ家の芸術奨励者」です。
Julius Victor Berger は、1850年現在のチェコのモラビア地方Neutitscheinで生まれ、ウィーンで1902年に亡くなっています。
彼は14歳にしてウィーン美術アカデミーで学び、奨学金をもらい3年間ローマで修行しています。その後同じ画家仲間のEmil Jacob Schindler (エミール・ヤコブ・シンドラー)とその妻Anna(アンナ)と共同生活をします。
シンドラーが温泉療養中にベルガ―はアンナと深い関係になり、そこから子供が生まれます。
有名なアルマ・マーラー(作曲家マーラーの妻)との父親違いの姉妹です。
アルマ・マーラーの父親はエミール・ヤコブ・シンドラーです。
1881年にベルガ―は工芸美術学校の教授に、1887年からはアカデミーの教授になり、ハンス・マカルトとも親しい間柄でした。
この天井画はキャンバスに描かれ、当時の巨匠による肖像画をベースに、熱心な芸術家奨励者であったハプスブルグ家代々の皇帝達が登場しています。
中央の椅子に座っているのはマクシミリアン1世で、その私達から見て右側にアルブレヒト・デューラーが立っています。
左側の黒の服を着た人物が、カール5世、私達から見てその左の赤い服を着た人物がティツィアーノ、そこに座っている女性はカール5世の妻ポルトガルのイザベラです。
このKunstkammerは、長い改装が終わって2013年3月1日より一般公開されています。
美術史博物館に行った方は是非見て下さい!
2013年11月6日付でキリスト教の成り立ちについて書きました。
ヨーロッパ文化はキリスト教なくしては考えられません。
絵画、教会建築、音楽、工芸品、生活習慣などに大変な影響を与えました。
そういう意味でもキリスト教はとにかく奥が深く重要です。
キリスト教のことが少しでも見えてくると、街はもっとおもしろく見えますね。
宗教芸術は2世紀末~3世紀初めに現れ、また同時に様々なシンボル的な要素も登場していきました。
ローマのコンスタンティヌス帝が313年にキリスト教を公認してからは、
このキリスト教芸術は様々な分野にわたって安定した地位を得ることになるわけです。
こちらはそのキリスト教でよく見る有名なモノグラムのひとつです。
これはギリシャ語の最初の文字アルファと最後の文字オメガを表します。
聖書のヨハネ黙示録に登場する
『わたしはアルファであり、
オメガである。』
から発するもので、
わたし=イエス・キリストです。
神である主、創造神としてのアルファ(Α)
万物の支配者、審判神としてのオメガ(Ω)であるイエス・キリストを表します。
このアルファとオメガは、新約聖書が書かれた後ぐらいから急速に広がって行きました。
ちなみに福音書記者ヨハネの書は、紀元90年代に書かれています。
さらにコンスタンティヌス帝の前の時代ぐらいからは頻繁に用いられ、
4世紀にはギリシャ、小アジア、アラビア、パレスティナ、イタリア、北アフリカにも
広がって行きました。
このモノグラムは教会以外に、墓石、棺、宗教的書物、工芸品、貨幣、煉瓦などやなどにも見られます。
ウィーンにはアンティーク関係の店がたくさんあります。
王宮界隈にもかなりそのような店があり、何と言っても「ドロテウム」という1707年創業の、ドイツ語圏最大のアンティークデパート(でも質屋?)があるくらいです。
ちなみにウィーンにはナッシュマルクト付近で毎週土曜日に開かれる「のみの市」も観光でも大変知られるようになりました。
それ以外ウィーンの街中ではかなりの場所でのみの市やアンティーク市が定期的に開かれています。
その中であまり知られていない、
でも国立オペラ座にとても近い所で月2回開かれる
「Zeitreise Antikmarkt」
(ツァイトライゼ・アンティークマルクト)があります。
日本語に直訳すれば、「時間旅行アンティーク市」
となるでしょうか。
このアンティーク市が開かれている場所は、
RINGSTRASSEN GALERIEN(リンクシュトラッセンガレリー)です。
リンク道路に面して建つ2つの宮殿の中がショッピングモールになっていて、センスのいいブティック、
カフェ、スーパーなど色々な店が入っている有名な場所です。
この2つの宮殿の名称は、KärntnerringhofとPalais Corsoで、特にPalais Corsoには、
グランドホテルが入り、地下にBillaという有名なスーパーがあることで知られています。
そのガレリーの中の通路に、様々なアンティーク業者が並びます。
のみの市ではないので、わけのわからないガラクタは一切ありません。
むしろその逆で置いてある物の質はかなり高い印象を受けました。
例えばアウガルテンのセットなどもありました。
このアンティーク市は原則的に月2回開かれます。
以下コンタクト情報です。興味ある方は参考にして下さい。
0650/401 46 41
去年12月5日にウィーンのちょっと珍しいアングル 5 を紹介しましたが、今回は第6弾です。
こちらは王宮のミヒャエル門の真ん中にある大きなドームを、その背後にあるちょっとした中庭空間から眺めています。
ミヒャエル広場にドームを正面に見て立ち、そのドームの右側空間からの中庭から見ています。
とても狭い中庭で、ミヒャエル門の半円構造を何気なく見ることができます。
Hofburg(王宮)は色々な時代の増改築から成り立っているので、とても複雑です。
このコーナーではお馴染みのシュテファン大聖堂です。
こちらはシュテファン大聖堂の南の塔が、その界隈の建物の隙間から顔を覗かせてる光景です。
ここはシュテファン大聖堂界隈ですが、3つのそれぞれ異なった建物が作り出している空間にちょうど大聖堂の塔が
伸びています。
個人的にこのアングルは結構おもしろいと思っています。
ちょっと発想を変えて地面の石畳のギリギリの所から眺めてみました。
歴史ある建物と石畳が調和して、美しい雰囲気です。
この通りは細いのですが、地面ギリギリで撮影しているため
絵画的には不自然な遠近効果ですね。
上方面ばかりでなく、下から見た光景も新鮮です。
最近オーストリア国鉄の駅構内にも地下鉄同様色分けされたゴミ箱が置かれ始めました。
地下鉄のゴミ箱よりもこちらの方が、投入口から色分けされているので視覚的にとても分かり易くなっています。
青が缶、赤が紙、黒がそれ以外、
黄色がプラスチックです。
青、赤、黄色のそれぞれの用途は地下鉄と同じになっています。
その他のゴミは地下鉄は薄い紫でした。
積極的にゴミを分別しよう・・・というウィーンの街の意識が伝わってきますね。
ウィーンには様々なレストランがありますが、このピアリステンケラーも地元では有名な歴史あるレストランです。
Keller (ケラー)というのは地下という意味に一般的によく使われます。
そのため地下にあるレストランはよく・・・ケラーという名前が付けられています。
ピアリステンケラーは、ウィーンの市庁舎から約700mリンクとは反対方向に10分ぐらい歩いた所にあります。
そこはレストランの名にもなっているピアリステン修道会とその美しいバロック教会が建っているちょっとした広場になっています。
ピアリステン修道会は、
José de Calasanz (1557-1648)によって1617年にローマ教皇から認められました。
創始者の彼はスペイン出身の貴族で、ローマに貧しい子供達のために初めて無料の学校を設立します。
このウィーンのピアリステン修道会は皇帝レオポルド1世が1697年に許可を与えています。
1997年はここの300年記念の年で、それに合わせて修道会、教会、レストランも綺麗になりました。
入り口から階段を下りて行くと、薄暗いレストランに随所に電気が灯されて独特の雰囲気です。
奥に行くと、細長い空間と大きな空間と2つあり、
レストラン内にはオーナーの趣味から
始まったちょっとした博物館的な感じで、色々なショーケースに歴史的展示品が置かれています。
通常はこのどちらかの空間で食事をしますが、ここは別料金になりますが、さらにワイン試飲も提供されています。
昔の帽子をかぶらされ、もっと奥に行くとワインケラーに続いて行き、半ば密教的な演出でワイン試飲を楽しむことができます。
このピアリステンケラーは、夕方18:00~24:00 が営業時間で、残念ながら昼は営業していません。
もし時間があって、ちょっといい雰囲気のレストランをお探しであれば知っていても損はないレストランです。
ウィーンには歴史ある重要な教会がたくさんあります。
今回はフランシスコ会の教会について少し書きたいと思います。
ウィーンの旧市街地の一角、その名前の通りフランシスコ広場に位置している美しい教会です。
フランシスコ会はアッシジのフランシスコが13世紀初頭1209年にローマ教皇から認められた修道会です。
フランシスコ会はウィーンには1224年にバーベンベルクのレオポルド6世によって呼ばれました。
最初は現在の ミノリーテン教会がある所に教会と修道院を作ります。
1451年からは、マリアヒルフに修道院を持ちますが、1529年オスマントルコによって壊されてしまいます。
そこで14世紀終わりに建てられた、ある女性修道会が使用していた空き家になっていた現在のこの場所に、1589年にフランシスコ会が新たに入って来たわけです。
その後まもなく1603年から1611年までにこのスタイルで建てられました。
ウィーンでは貴重な南ドイツルネッサンス様式です。
でもこの窓を見るとわかりますが、ゴシック様式の部分も残されていますね。
当初1209年に設立されたフランシスコ会は小さき兄弟会(ミノリーテン)と言われます。
14世紀に入って会則が変わったり、緩和されたりしたことから1430年頃から枝分かれが生じ、最終的に1517年枝分かれし、ミノリーテンの改革派としてフランシスコ会が生まれます。
その後1528年にはさらに枝分かれしたカプチン会も成立しています。
現在のミノリーテンはフランシスコ会、カプチン会よりも規模が小さくなっています。
ちなみにこの最初のミノリーテンから1212年にClarissen(クラリッサ女性修道会)が設立されています。
ここのFranziskanerplatz(フランシスコ広場)はウィーンの旧市街地の絵になる広場のひとつです。
この教会は、聖人のヒエロニムスに捧げられています。
そのため、教会入口の上には彼が立っていますね。
広場にあるのはモーゼの噴水です。
またこの広場には有名な「KLEINES CAFÈ」もあります。
教会の左側にはフランシスコ修道会の建物が隣接しています。
こちらは教会の内部です。
ここのメイン祭壇は、アンドレア・ポッツォによるものです。
以前イエズス会の天井のだまし絵について書きましたが、ここも
アンドレア・ポッツォによるものです。
このメイン祭壇の手前側は彫刻的に作られていますが、その内側に見られる、柱、建築構造、ドーム、雲は全てキャンバスに描かれているものなのです。
ポッツォならではのユニークさがあります。
また修道院の内部にはは、「Wöckherl Orgel」(ヴェッケルル オルゲル)という名物オルガンがあります。
このパイプオルガンは、1642年Johann Wöckherl (Weckerl)によって製作されました。
このパイプオルガンは、ウィーンで現在でも弾くことができるオルガンとしては最古のパイプオルガンです。
ヨーロッパの街はこのように、広場に教会が建っている所はとても多くあります。
ウィーンのカフェコーナーでも書いていますが、ウィーンには名物カフェがいくつもあり、それぞれ独特の個性や雰囲気があってとてもおもしろいわけですが、この場末的なカフェ「ハヴェルカ」(Café Hawelka)もとても有名です。
このカフェは、Leopold Hawelkaによって、1939年にオープンしたカフェで、ウィーンの伝統カフェからすれば帝国崩壊後で、第2次世界大戦が始まる年なので、かなり新しいカフェとも言えるでしょうか。
Leopold Hawelka は、その3年前の1936年からウィーンのBäckerstraßeに
「Kaffee Alt Wien」を経営していました。
そして1939年にこの現在の場所に奥さんのJosefineと共に、当初はCafé Ludwigという
名でカフェを経営します。
その直後、戦争の影響で彼はロシアに行かされてカフェは中断、しかし5年後に戻り、再びカフェを経営します。
Josefineは薪ストーブでカフェを提供し、Leopoldはその薪を取りにウィーンの森に行きと、一生懸命店を経営しました。
戦後このカフェは作家や芸術家達に好まれたカフェのひとつとなりました。
ここは店内に入ると、まるでタイムスリップをしたようなカフェです。
他の伝統カフェのように100年以上も
経過していませんが内装がほぼ当時のままです。
セピア色の写真がよく似合うようなカフェで、たいてい混雑しています。
合い席は当たり前・・・という感じです。
ノーブルなカフェもいくつもありますが、このような雰囲気のカフェもウィーンらしいカフェのひとつです。
以前11月15日付で、ウィーンの街中に残る貴重な城壁について書きました。
それが19世紀後半の取り壊されてリンク道路が建設されるわけですが、その頃ウィーンの中心のもっと外側には「Linienwall」(リーニエンヴァル)と呼ばれたいわゆる2つ目の城壁がかなり外側を環状的に囲んでいました。
中心の貴重な城壁と同様、あまり知られていませんが、このLinienwallの名残も数か所で見ることができます。
こちらはそのLinienwallの名残です。
この場所はしかし建物の中庭に残されているため、プライベート空間なので、外からは残念ながらすぐ見られるわけではありません。
Linienwallは、皇帝レオポルド1世の下、1704年から建設されました。
ウィーンは大きく1529年、1683年と2回のオスマントルコに包囲され、
(ウィーンは落ちることはありませんでしたが)その脅威から更に中心の外側にも城壁を築こう・・・となったわけです。
こちらは、誰でも外から見られる別の場所にあるLinienwallの名残です。
Linienwallは、St.Marx(現在の3区)~Lichtental
(現在の9区)を環状的に結び、18歳~60歳の地元男性約2500人と150人の学生が建設しました。
高さ4m、幅4m、深さ3mの堀を備えたこのLinienwallは、全長約13.5km・・・
何とたった4ヶ月という驚異的な速さで建設されたと言われています。
19世紀半ば、そのLinienwallの外側に、国鉄の駅(現在のHauptbahnhofやWestbahnhof)が作られ、Linienwallの重要性が失われていき、このLinienwallは最終的に1894年に取り壊されることになります。
現在その外側には通称「Gürtel」(ギュルテル)と呼ばれる大きな環状道路が通っています。
旧市街に残る貴重な城壁もそうですが、街の歴史を知っていると、このような何の変哲もなさそうな物も、おもしろく見えてきますね。
今日1月6日は、「Heilige Drei Könige」(ハイリゲ・ドライ・ケーニゲ)の日で休日です。
このドイツ語を直訳すると。「聖なる三王」となるでしょうか。
日本語では、東方三博士、東方三賢者とも言われています。
新約聖書のマタイ書では「イエス・キリストが生まれ、ベツレヘムからの星に
導かれて東からやって来る学者」としか書かれていません。
つまり人数なども書かれていないわけです。
しかしすでに3世紀ぐらいから「人数」と「王様」で登場していたようで、6世紀初頭にはそれぞれの名前も与えられたようです。
この東から来た三学者は、ヘロデ大王のもとへ行き「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」について尋ねます。
ヘロデ大王が「幼子を見つけたらここに連れて来るように・・・」と言いましたが、3人は王の所へは戻らず、そのまま帰って行きました。
彼ら3人には名前があり、それぞれ以下の物をイエスに捧げます。
カスパール (アジアを象徴)
没薬を渡し、将来の受難の死を意味する老人の姿で登場
メルキオール (ヨーロッパを象徴)
黄金を渡し、王権を意味し、青年の姿で登場
バルタザール (アフリカを象徴)
乳香を渡し、神性を象徴し、普通は黒人で壮年の姿で登場
これは12世紀のヨーロッパでは、ヨーロッパとアジアとアフリカの3大陸だけだと信じられていたことも関係があると思います。
この内容に合わせて、Weihnachtskrippe (ヴァイナハツクリッペ)という、
イエスが生まれ、まさにこの3人がイエスを拝みにやって来るシーンを表す
ジオラマが多く見られます。
こちらは、ミノリーテン教会の中に置かれている、Weihnachtskrippeです。
ここのWeihnahctskrippeはとても大きくて見ごたえがあります。
イエスがいるシーンは一番左側だけのちょっとした部分だけで、後はベツレヘムの街の生活雰囲気が表されています。
こちらはヨゼフとマリアが一番左にいることが
わかります。
個人的に、東京ディズニーランドの
カリブの海賊を思い浮かべてしまいます。
余談ですが、このミノリーテン教会には、
以前ここでも紹介したダ・ヴィンチの「最後の晩餐のモザイク」も必見です。
こちらはシェーンブルン宮殿のWeihnachtskrippeです。
こちらは外に置かれているため、ガラスケースの中に作られています。
イエスがどこにいるかすぐにわかりますね。
Weihnachtskrippe はおそらく、アッシジのフランシスコが1223年にイタリアのグレッチョで、生きている動物と人間で説教時に始めたとされています。
1562年にイエズス会がプラハで置いたWeihnachtskrippeが、今日の意味で最初のものとされています。
久しぶりに知られざる美しい中庭風景シリーズです。
前回は11月29日にこのコーナーで知られざる美しい中庭風景4で、秋らしいMelkerhofとパヴラッチェンを紹介しました。
ウィーンには外からは全く分からないちょっとホッとする静かな中庭空間が
たくさんあります。
こちらは旧市街地から少し離れたシュピッテルベルク界隈
です。
このシュピッテルベルクは、シュピッテルベルクのクリスマス市でも書いていますが、
細い石畳の通りに、比較的
小さなバロック様式などの建物が多く建ち並んでいて、MQ(博物館地区)の裏側辺りに位置しています。
窓も小さいことから、建物が比較的こじんまりしていることが伺えます。
シュピッテルベルク界隈は、通常はとても静かな所です。
この中庭は、通りから入った、もっと静かな空間です。
こちらはウィーンのど真ん中のシュテファン大聖堂の塔から見た、ウィーン大司教区管轄の建物の中庭です。
中庭が、建物に綺麗に囲まれていることがわかります。
1階部分のアーチ構造,屋根裏部屋、煙突がとても
印象的です。
中庭に面した所にもたくさんの部屋があることがわかります。
シュテファン大聖堂の目の前とはとても思えません。
このような外からわからない美しい中庭は、上から見てもまた違った意味で美しいですね。
ウィーン西駅 (Westbahnhof)は、西駅構内のエリザベート像でも書きましたが、
1858年に „k.k. priv. Kaiserin-Elisabeth-Bahn“「宮廷エリザベート皇后鉄道」という名でスタートしました。
残っている昔の写真を見ると、美しいルネッサンス様式の駅舎が建っていました。
その後第2次世界大戦で壊され、1954年に近代的な駅舎になりました。
その部分を残し、さらにBahnhofCity Wien West
(バーンホーフシティ・ ヴィーン ヴェスト)
という名で、2011年11月23日にオープンしています。
その1954年に建築された部分の両側に新しく駅ビルを建てた形になっています。
この駅ビルは17.000m²の広さで、3階建て構造で、スーパー、パン屋、ブティックなどを始め90の店が入り、なおかつ13.000m²の敷地に400部屋あるホテル、そしてオフィスビルとなっています。
営業時間も食事関係は毎日9:00~21:00、
ショッピング系は月~金9:00~21:00,土 9:00~18:00(日、祝祭日はクローズ)
とかなり便利で、遅くまで色々なお店が営業しています。
パン屋さんなどはもっと早くから開いています。
この西駅構内に写真のようなInfo塔があり、この駅ビル内全ての店を知ることができます。
このInfo塔はタッチパネル方式なので、使い易く表示も分かり易いです。
古代ローマ帝国が一番大きかった時は、紀元後1世紀終わりから2世紀初めのトラヤヌス帝の時代で、地中海沿岸を全て含んでいました。
この時北側のローマ帝国の国境ラインがこの辺りはドナウ河だったわけです。
そこでローマ帝国は異民族に備え、Legionslager(レギオンスラーガー)と呼ばれた駐屯地を築き、現在のオーストリアにはドナウ河沿いに当時の大きな駐屯地が3つあり、そのひとつがVindobona(ヴォンドボナ)と呼ばれたこのウィーンでした。
Vindobonaは1世紀~4世紀に存在し、周辺地域が破壊されても、駐屯地は5世紀まではあったようです。最大で約6000人の兵士(Militärsiedlung)と約3万人の人口(Zivilstadt)があったわけです。
こちらはウィーン歴史博物館で見られるVindobona時代のウィーン中心部です。
赤く正方形的な部分がLegionslagerで、シュテファン大聖堂がその外側にあることがわかります。
南側(青い部分との境)が現在のグラーベンで、そのグラーベンの終わりの所を、現在のコールマルクトを通ってミヒャエル広場まで道が伸びていることがわかります。
ミヒャエル広場には、北から現在のHerrengasseが交差し,そして現在のオペラ座へ向かって道が伸びています。
赤い部分の西側の一番端に縦長の広場が見えますが、これがAm Hofです。
青い部分は、Lagervorstadtで,canabae legionis と呼ばれ、商人、職人、楽しめるような施設やレストラン的なものを経営する人などが住んでいました。
劇場、温泉、祈りをする教会の様な場所などもあったはずです。
こちらはグラーベンの延長上にあるNaglergasseという小路です。
この通りは右にカーブしていて、それに合わせて建物も建っています。
このカーブこそ、上の地図で見られる、赤い部分の一番西側で、そのすぐ左には「Hohe Brücke」で紹介したOttakringer Bachという川が流れていました。
その川も地図上で確認できますね。
この川は現在Tiefer Grabenという通りになっています。
ウィーンの旧市街地はとても古い歴史を持っていますが、このローマ時代のことを
知っていると街がもっとおもしろく見えてきますね。
毎年気づかないうちに物価が何気なく上昇しています。
そして落ち着いて何年も前の状況を思い起こすと、えっ!・・・
以前はそんなに安かったんだ・・・でも今はこんなに高くなったんだ~・・・ということがよくあります。
今年2014年から高くなるものがいくつかあります。
2014年から高くなるもの | どのくらい高くなる? |
e-card (いわゆる社会保険証)の年間手数料 | €0,25 |
Rezeptgbühr (処方箋料) | €0,10 |
Autobahn Vignette (高速道路通行料金) | €2,10 |
自動車保険全般 | 数パーセント |
携帯電話通話料と携帯からのインターネット | 数パーセント |
ÖBB(オーストリア国鉄) | 平均2% |
上下水道、ゴミ収集料金 | 4.1% |
タバコ税 | €0,45 |
Sekt(発砲ワイン) | €0,75 |
日常生活で病気を多くする人は多めに払うことになります。
高くなるものもある反面、Familienbeihilfe(家族手当)が今年7月から引き上げられます。
また7歳~18歳までが対象で、歯の矯正も無料になります。
色々な改正がありますが、得する人もいれば、損する人もいるわけです。
しかし社会福祉を基準に考えれば個人的にはいいのかなと思います。
オーストリアは結構臨機応変に法律が変わる印象があります。
でもそれが国民にとってよければいいですね。
このコーナーを読んで頂いている皆様 へ
明けましておめでとうございます。
今年も皆様にとってよい年になることをお祈りしております。
いつもこのコーナーを読んで頂き誠にありがとうございます。
本年も引き続きよろしくお願い致します。
昨日大晦日は例によって、至る所で花火が打ち上げられ、爆竹の音が騒がしく
響いていました。
また大きなロケット花火を打ち上げる習慣もあり、そこらじゅうで打ち上げられています。
こちらは夏に花火をする習慣はなく、大晦日の夜に花火をする習慣があり、年明けと共に
さらにたくさんの花火が打ち上げられます。
オーストリア国営放送で、毎年カウントダウン直後に映し出されるシュテファン大聖堂の
大鐘「プンメリン」でその年が始まります。
2013年10月19日に
「有名な大鐘 プンメリン」を紹介しました。
この大鐘を聞こうと、毎年大晦日にはたくさんの人がシュテファン広場に集まります。
そして直接この大鐘が鳴るのを聞く・・というわけです。
シュテファン大聖堂界隈はもうとにかく日本のラッシュよりひどいごった返し状態です。
普段鳴らされないこの歴史を持ったプンメリンが鳴るということは非常に重要な意味を持っているわけです。
こちらのテレビを見ていると、カウントダウンの直後にプンメリンが鳴らされている映像が流れ、その直後に美しき青きドナウが流されます。
今年は、一昨年2012年ウィーンフィルニューイヤー・コンサートの美しき青きドナウの演奏中に流されたベルヴェデーレ宮殿のダンスのシーンがプンメリンの直後に放送されました。
この曲は、オーストリアの第2の国歌とも言われ、Donau Walzer(ドナウ・ヴァルツァー)とも呼ばれて親しまれています。
ニューイヤーコンサートでも必ず演奏され、ウィーンを象徴する曲のひとつですね。
ウィーンの世界的に有名な国立オペラ座と国民歌劇場では、大晦日と元旦は、このシュトラウスの「こうもり」が上演されます。
シュトラウスで年が終わり、シュトラウスで新年が始まります。
この写真の像はウィーンに来たことがある方でしたら、おそらくどなたでも見たことがある市立公園にあるヨハン・シュトラウス像です。
シュトラウスの美しき青きドナウのことについては、また時間がある時にどこかで触れたいと思います。
ウィーンナーワルツと言われるように、ウィーンならではの独特の3/4拍子から奏でる音楽はまさにこのウィーンの街を象徴しているようです。