久しぶりにマリー・ヴェッツェラのお墓を訪れた

"森の都"とも形容されるウィーンの街は緑が多いことで知られていますが、その緑を囲むもっと広大な緑がウィーンの森です。

 

ウィーンの森には重要な見所が多く点在していますが、そのひとつである"悲劇のマイヤーリンク"として知られるマイヤーリンクは、ルドルフ皇太子が1889年1月30日、マリー・ヴェッツェラ男爵令嬢とピストル心中自殺をしてしまうというショッキングな出来事がありました。

息子が自殺した後、父親のフランツ・ヨーゼフ1世が、皇太子が自殺をしたと言われる場所を中心に取り壊し、礼拝堂を作らせました。

その礼拝堂は今もひっそりと立っていて、礼拝堂に隣接して博物館になっています。

そのマイヤーリンクも改装されて2014年10月9日からリニューアルオープンし、今年で10年を迎えます。

先日はこのマイヤーリンク動画と博物館の雰囲気を掲載しました。

その際に久しぶりにマリー・ヴェッツェラのお墓にも足をのばしてみました。

お墓自体は変わっていませんが、周りの木が切られて見通しが良くなっていて以前とはだいぶ変わっていました。

 

 

こちらがマリーのお墓です。

1889年1月30日マリーはマイヤーリンクにあるルドルフ皇太子の狩猟の館で17歳で亡くなりました。

次の日、31日夜遅く、マリーは毛皮のコートを着せられ、帽子をかぶせられ、そこから数キロ離れた有名なハイリゲンクロイツ修道院があるハイリゲンクロイツの墓地に運ばれ、日が変わってすぐの2月1日、嵐のような雨が降る中、急いで木の柩に入れられたマリーは土の中に埋葬されました。
 
その3ヶ月半後の5月16日、新しく作られた銅の豪華な柩に、木の柩ごと入れられ、マリーのお母さんが新たに作らせたGruft (しっかりと作られた墓石が置かれている地下空間)に再び埋葬されました。
 
その後、1945年の第二次世界大戦中、墓が荒らされ、マリーの頭蓋骨が荒らされた柩の横で発見されています。
1959年7月7日、錫製の柩に新しく入れられ、再び埋葬されました。
 
その後1991年の夏の夜、なんとマリーの柩がマリーごと盗まれてしまいます。
犯人はリンツの家具業者Helmut Flatzelsteinerとその仲間2人とされ、遺骨、髪、衣類を調べる目的だったようです。
次の年の12月22日にお墓の中を調べたら空っぽだったということです。
 
1993年10月28日の朝、新しい金属製の柩に入れられたマリーは再び埋葬されました。
マリーは気の毒なことに亡くなってから3回も地上に出ることになったわけです。

 

 

短いですが先日このマイヤーリンク動画編、掲載しているので御興味があればどうぞ。