ウィーンは日中の気温が7℃前後と先週と比べると少し暖かくなっていますね。
冬至が過ぎてひと月以上経ち、日が少しずつ長くなっていることを感じます。
今日は1月31日・・・1月も今日で終わりです。
今日は青空が広がるいい天気です。
1月31日と言えばシューベルトの誕生日ですね。
ここでもすでに数回話題にしているシューベルトの生家を紹介します。
シューベルトは、1797年1月31日にウィーンで生まれました。
この写真はシューベルトの生家で、ここの日本で言う2階でシューベルトは生まれます。
シューベルトのお父さんは学校の先生でした。
この建物は全部で16世帯あったいわゆるアパートであり、シューベルトのお父さんはここで住居と学校と2つの場所を借りていました。
お父さんの学校はマンモス学校で1クラス約80人の子供達が通っていて、2クラスありましたので、160人以上の子供達がこの狭い所に通っていたわけです。
シューベルトのお父さんテオドールとお母さんマリア・エリザベート・フィーツの間には14人の子供が生まれますが、9人が5年以内に他界し、5人が成人しますが、シューベルトは4男でした。
シューベルトの兄3人は、お父さんと同様教師になります。
お父さんは、音楽の造詣もあり同様に一番上のお兄さんイグナーツも音楽の造詣あり、そんな環境からシューベルトは幼少の頃から音楽に触れていました。
この場所は居心地がよかったわけですが、学校が大きくなっていったので、引っ越しをせざるおえませんでした。
シューベルトはこの生家に4年半住むことになります。
大通りに面したこの建物の中に入ると、外とは別世界の閑静な中庭空間が見られます。
ここに初めて入った人はきとすぐにカメラを向けたくなるでしょう。
でもこの場所に16世帯も住んでいて、なおかつ学校があったということはちょっと信じられません。
この中庭空間には昔の井戸がありますが、その右にある階段を上がって行った右側の空間に係がいる窓口があります。
そこで入場料を支払い、外に出て、そのまま反対側に行くとシューベルトが実際に住んだ住居に入ります。
住居に入ると、最初はVorzimmerという玄関と一緒になった空間と台所があり、その奥にはこの右の写真に見られるちょっと大きな部屋が隣接しています。
実際にシューベルトが生まれたこの部屋と、この隣に隣接している部屋を利用しては博物館として一般公開されています。
ちょっと暗いですが、窓と窓の間によく知られたシューベルトの肖像画があります。
この窓の外が入口がある大通り(Nußdprferstraße)です。
この部屋の左側には家族の肖像画が、また右側にはシューベルトの成績表や楽譜などが展示されています。
これは生家に展示していあるシューベルトのめがねです。
シューベルトは寝る時もめがねをかけていたと言われています。
それは起きてから、すぐにひらめいた曲を書くためでした。
めがねはシューベルトのトレードマークのひとつですね。
シューベルトは対象物と目との距離が18cm以内でないと物がぼやけて見えたそうです。
こちらは「糸を紡ぐグレートヒェン」の自筆譜のファクシミリです。
とても丁寧に書かれています。
でもモーツァルトと違って、シューベルトの楽譜を見ると(他の作曲家はたいていそうですが)、かなりの訂正箇所を見ることができます。
(この写真では見られませんが)
シューベルトはウィーン少年合唱団の前衛でもあるコンヴィクトで学んでいます。
音楽的な才能はあったようで、サリエリがシューベルトの才能を評価しています。
その後、兵役から免れるため、シューベルトも17歳の時に、お父さんの学校を手伝える資格も取っています。もっともあまりやる気はなかったようですが・・・。
音楽家としては、何か重要なポストに就いたわけでもなく、作品が出版されたこともなく、しかしそれなりに彼の音楽的才能は知られ、作曲で収入もありましたが、生前中音楽家として成功したというわけではないでしょう。
ベートーヴェンが亡くなった1827年の翌年1828年にシューベルトも31歳という若さでこの世を去るわけですが、ベートーヴェンが神格化されると同時に、シューベルトの歌曲に対しての評価が高まり、「歌曲の王」として名を残すことになります。
特にドイツリート(ドイツ歌曲)をたくさん作曲しました。
でも歌曲以外にも室内楽、ピアノ曲、教会音楽、交響曲、オペラ等幅広く作曲しています。
シューベルトは発想が次々と浮かんでくる天才肌だったようですが、個々の楽器については本人がそこまでうまく演奏できたわけではなかったようで、特にピアノ曲などは技巧的にかなりくせがある・・・と言われています。
ウィーンの街中にはシューベルトの跡がたくさん残っています。
シューベルトはベートーヴェンやモーツァルトとは違った純粋なウィーン人ですね。