オーストリアは小さい国もかかわらず、旅の全ての魅力を持つ美しい国です。
この国がヨーロッパに与えた、そして残した歴史的、文化的影響は計り知れないものがあります。
今日10月26日はオーストリアのNationalfeiertag(ナチィオナルファイエルターク)・・・オーストリア共和国の祝日です。
Nationalfeiertag(ナチィオナルファイエルターク)のことをよく"建国記念日"と訳されているのを見かけますがちょっと違うと思います。
そもそもNationalfeiertagという言葉は国の(国民)の祝日と訳されます。
この小さな国オーストリアにとって今日は歴史的にとても重要な日です。
ヨーロッパで一番長く続いたハプスブルグ王朝が崩壊した1918年11月11日の翌日からチェコやハンガリーもオーストリアから離れていき、現在の基本となる民主主義の共和国としてスタートしました。
オーストリアは一挙に小国に転落したので、この国だけでやっていけるか不安だったためワイマール共和国との協調性がベースとなり、最初はドイツ=オーストリア共和国となりました。
そして1919年10月21日からはオーストリア共和国という現在の呼び名になります。
その後赤いウィーン時代、世界恐慌、オーストリアファシズムなどを経験し、ヒトラーのナチス党の勢力に負け、オーストリアはヒトラーの最初の犠牲国となり、ドイツに併合され、地図上からオーストリアが消され、第二次世界大戦で敗戦国となります。
その時にアメリカ、イギリス、フランス、かつてのソ連の連合軍の支配を受けることとなり、連合軍の中でもソ連軍が一番最初に東からオーストリアに到着し、残り3国が後から入ってきたわけです。
オーストリアはそれぞれの占領軍に分割統治され、ウィーンもそれぞれの区が分割で統治されました。
ウィーン旧市街はベルリン同様4カ国の共同統治となりました。
そこでソ連の権力が強く、必然的にオーストリアにはソ連がバックについた暫定内閣が生まれてしまいます。
このオーストリアもかつての東ヨーロッパであったチェコ、スロバキア、ハンガリー、ブルガリア、ルーマニア、ポーランド、ドイツの東とベルリンの東、そしてかつてのユーゴスラビアと同様にソ連の共産主義の世界に引きづり込まれる可能性が大でした。
しかしオーストリアはカール・レンナーを中心とした当時の政治家達が素晴らしい政治手腕を発揮し、内閣から共産党をなるべく排除し、西側民主主義体制の基盤を作ります。
ソ連との戦後の交渉問題などを含め占領時代が長引き、10年の月日が流れていきましたが、ついにオーストリアは共産圏に入ることはなく、民主主義の共和国として4カ国との国家条約が1955年5月15日、ベルヴェデーレ宮殿で結ばれることとなります。
7年前の2015年5月15日は国家条約締結60周年記念というおめでたい年でした。
1955年5月15日に国家条約を結びましたが、そこから4か国がオーストリアを完全撤退するまでにはまだ数か月を要しました。
よく地元の人に「なぜ10月26日がオーストリア共和国の祝日なんですか?」と聞くと最後のソ連兵がウィーンを出て行った日・・・と本当にそう思ってる人が多いんですね。
最後のソ連兵は9月19日にオーストリアを去っていますし、しかも本当の最後はイギリス軍が10月25日にオーストリアを去っています。
次の日10月26日に「die immerwährende Neutrarität」・・・オーストリアは永世中立国である・・・という法律が国会を通して定められました。
つまり、現在のオーストリアの永世中立国体制が法律として定められたことから、今日のこの日はオーストリア共和国の祝日となっています。