オーストリアの地形はヨーロッパアルプスが大きく横たわっているという特徴があります。
ウィーンはかつての帝国の都ですから荘厳な建造物が多く建ち並んでいて、アルプスがある国の首都とはとても思えません。
ウィーンの街からは、高い所に上らない限りアルプスが見られることはほとんどありません。
実際に見えてもそれはウィーンの森ですから標高は550m弱です。
場所によってはSchneeberg(シュネーベルク)が見られる所はありますが・・・。
ちなみにウィーンの森はヨーロッパアルプスの一番東側になります。
ウィーンから西に行くにしたがって山がどんどん高くなっていきます。
アルプスがあるおかげでアルペンスキー発祥となったオーストリアですので、スキーもサッカーと並んで国民的スポーツとなっています。
日本ではスキーよりもスノーボードの方が人気があるかもしれませんが、オーストリアではやっぱりスキーですね。
そのスキーを日本に伝えた人がオーストリア人であったことは御存知でしょうか?
その人は"レルヒ少佐"という人物です。
今日はこのレルヒ少佐と彼のお墓についての話題をお届けします。
レルヒ少佐は日本で初めてスキー指導を行った人です。
レルヒ少佐(Theodor Edler von Lerch)は1869年に現在のスロヴァキアの首都ブラチスラヴァで生まれました。ここは当時オーストリア=ハンガリー帝国で、ハンガリー王国側に入っていた地域です。
ブラチスラヴァは当時"Pressburg"と呼ばれいて、ウィーンからたったの65㎞しか離れていません。
彼は軍人の家系に生まれてます。彼が13歳の時に一家はプラハに移りますが、彼はウィーンのGymnaiumに通いますが、その後家族がいるプラハのGymnaiumに転校します。
1888年にWiener Neustadtのテレジア士官学校に入ります。
1891年に少尉になり、父が勤務していたプラハに配属されます。
1900年にインスブルックの第14軍司令部附参謀となった時に、スキー訓練に興味を持つようになったといいます。
アルペンスキー創始者であるMathias Zdarskyに師事し、仕事では南チロルの警備を任せられます。
この環境はスキーには最適でした。
彼は軍の訓練中、雪崩に遭遇したことなどやオーストリアの地形的なことから軍にスキーの重要性を説いて回り、軍隊にスキーを導入させ、彼は講師としても活躍しています。
そんな彼が日露戦争に勝利した日本陸軍を研究するため、交換将校として1910年11月に来日します。
日本陸軍がZdarskyの弟子であったレルヒ少佐に注目し、新潟県の高田町(今の上越市)でスキー指導を行いました。
1912年には北海道にも行き、明治天皇が崩御してからは日本各地を周り、1913年1月に帰国します。
レルヒ少佐は1本杖と2本杖の両方を習得していましたが、日本で広めたのは高田の地形を考慮して1本杖でした。
その後サラエボの銃弾事件が勃発となって、オーストリアがセルビアに宣戦布告をして第1次世界大戦が始まり、文字通り軍人として仕事をしました。
1919年には退役し、貿易会社を立ち上げたり、軍事雑誌などの執筆などを手掛けますが、レルヒ少佐は1945年12月24日ウィーンで糖尿病で亡くなりました。
北海道では彼が1911年に中佐に昇進したことからレルヒ中佐とも呼ばれています。
そのレルヒ少佐のお墓はウィーンの有名な中央墓地にあります。
通常中央墓地では音楽家のお墓や映画「第三の男」に登場するラストシーンの並木道などを訪れるわけですが、その場所に一番近い第2門ではなく、レルヒ少佐のお墓は第3門のプロテスタントの領域にあります。
左上の写真が中央墓地のプロテスタントの入口です。
ここは観光で来ることはまずありません。
ここから中に入ってしばらく行くと、右上に見られるレルヒファミリーのお墓があります。
ここには何人かの名前が刻まれていますが、レルヒ少佐の名前は下から3番目です。
こちらはレルヒ少佐のお墓の全体像です。
一番上には"FAMILIE VON LERCH"と刻まれています。
最近は時間が無くてあまりやっていませんが、私もスキーは大好きですので、このレルヒ少佐のお墓の前に立つとちょっと特別な感情が湧いてきます。