ウィーンの街はユーゲント・シュティール様式の建物や工芸品などがたくさんあります。このユーゲント・シュティールという時代は19世紀終わりぐらいから第1次世界大戦が終わるまでのかなり短い時間ですが、ウィーンのリンク道路のようにヨーロッパの色々な様式が登場した保守的な伝統を重んじる考え方から離れ、その時代に相応しい新しい芸術・様式を生み出そうとする芸術家や建築家が多くいました。
ウィーンだとやはりオットー・ヴァーグナーが真っ先に登場します。
オットー・ヴァーグナーは1841年のウィーン生まれ、ウィーンで一番古いアカデミーギュムナジウムで学び、ベルリンの建築アカデミー、その後ウィーンのアカデミーで国立オペラ座の建築家であるシッカルズブルクとニュルのもとで学んでいます。
当時支配していた古典的な保守的な時代から抜け出し、時代にふさわしい新しい素材、例えば鉄骨やガラスなどを用い、機能性を考え、その中に美しさを見出す・・・といった画期的なコンセプトでウィーンを中心に新しい風を吹き込ませました。
オットー・ヴァーグナーが手掛けたものとして、オットー・ヴァーグナーの駅舎、
Stadtbahn(シュタットバーン)、アム・シュタインホーフ教会、マジョリカハウス、ドナウ運河が始まる場所にあるNussdorfer Wehr und Schleuseanlageなども参照して下さい。
そのオットー・ヴァーグナーが手掛けた駅舎をひとつ見てみましょう。
こちらの駅は"Oberdöbling" (オーバーデープリング)というウィーン19区一角にある国鉄S45の駅です。
このS45はもともと19世紀の終わりから20世紀初頭(1898年~1901年)にかけてオープンした4本のStadtbahnのひとつで、"Vorortelinie"と呼ばれていました。プランはオットー・ヴァーグナーで、Hütteldorf ~Heiligenstadtを結び1898年5月11日にオープンしています。Stadtbahnの中では一番早く営業開始しています。
ちなみに当時に4本のStatbahnとは、Vorortelinie,Wientallinie,Gürtellinie,Donaukanallinieで、中でもWientallinieはObere WientallinieとUntere Wientalinieと区別されていました。
このOberdöbling駅のプランは1894年7月にされているようです。実際には1897年には完成していて、試験走行が行われています。1932年には営業を停止していて、本来の機能が失われていき、ここは荒れていきました。
1979年にオーストリア政府とウィーン市がこのラインを国鉄へと改築しますが、施設の荒れ方がひどかったため取り壊されて、当時のスタイルで再び建てられました。1987年よりオーストリア国鉄S45として活躍していて、毎日多くの人が利用しています。
これを見るだけでオットー・ヴァーグナーが手掛けたものであることがわかります。
鉄骨とガラスといった当時を象徴する素材が使用されています。
日本にある小学校の体育館のようなアーチ状の形をしていますが、全体的に空間がとても印象的で、外からの採光がガラスを通して取り入れられています。
オットー・ヴァーグナーは芸術は観賞されるだけではなく、使われるべきであり、その機能性を考慮しつつ、その中でも美しさがなければいけない・・・という画期的なコンセプトでウィーンの街に新しい風を吹き込みました。
120年経った今でも十分ウィーンの街に溶け込んでいて、なおかつ時代を感じさせる懐かしさを感じることができます。
ウィーンの街にはこのようなものがたくさんあります。