ウィーンは森の都とも言われ、ヨーロッパの街の中で街の広さに対して緑の比率が最も高い街です。
ウィーンを歩かれたらここは緑が多い街だな・・・ということがおわかりになると思います。
中心のリンク道路沿いだけでも5つも公園があり、それ以外にも多くの公園や庭園、街路樹地帯など、そしてその豊かな緑をもっと外側から囲んでいるウィーンの森があります。
ウィーンの街中の緑の多くはウィーン市の管轄ですが、それだけではなく国が管理している公園も多くあります。
国が管理している場合はBundesugarten(ブンデスガルテン)と言われ、公園ではなく"庭園"と言った方がいいでしょう。
皆さんが観光で行かれる多くの公園が実はBundesgartenだったのです。
オーストリアのBundesgartenには、ウィーンのシェーンブルン宮殿、ベルヴェデーレ宮殿、王宮庭園、国民庭園、アウガルテンの5つがあり、その他にインスブルックの王宮庭園、アンブラス城の庭園があります。
ウィーンに来られた方はたいてい5つのうち、アウガルテン以外の4つは訪れるでしょう。
今日は観光の皆さんがあまり行かないアウガルテンについて少しまとめておこうと思います。
Augarten(アウガルテン)はウィーン中心部ドナウ運河沿いのSchwedenplatzから北へ徒歩1.4kmの所にあり、ウィーンで残る最古のバロック庭園です。
ここはもともと宮廷の狩猟場所であり、ハプスブルグ家のマティアス皇帝が1614年にその一角に小さな狩猟の館を建てさせました。
この地域は人工的な手が入れられていなかった自然のAulandschaftでした。
Aulandschaftは日本語では河畔林(かはんりん)とか河辺林(かわべりん)とも呼ばれます。
1650年、皇帝フェルディナント3世の時代に、小さなオランダ式庭園を造らせて、同時に狩猟の館が拡張されます。
1660年代に皇帝レオポルド1世がここを入手し、1677年にKaiserliche Favorita名付けられた小さな宮殿に改築させました。
1683年オスマントルコの2回目のウィーン包囲の時にこの辺りは破壊され、壁の部分だけが残ったということです。
その後1705年に皇帝ヨーゼフ1世が宮殿を、1708年には庭園部分を修復させてました。
この時に作られた建物にヨーロッパで2番目に古く、当時ウィーン宮廷磁器工房として1718年に設立された現在有名な"Augarten"の工房があります。
その後1712年マリア・テレジアの父である皇帝カール6世がシェーンブルン宮殿の庭園を現在の形にした パリ生まれの造園技能士Jean Trehet(1654~1740)に依頼し、現在見られるようなフランス式庭園に変えさせました。
1775年、ヨーゼフ2世皇帝によってプラター公園同様、一般市民にここが解放されました。
その時の記念プレートがアウガルテンのメインの入口である左上の写真に今でも見られます。
当時はレストラン、ダンスホール、ビリヤード場なども作られました。
1830年2月28日~3月1日に水害のため、1.75mもの水位となりました。
リンク道路が完成した後のドナウ河川工事により、この地域は水害とは無縁になりました。
第2次世界大戦の終わり頃、ここにはウィーン中心部を守るためのFlakturm (Fliegerabwehrkanonenturm) と言われる高射塔が6基作られますが、そのうちの2基がこのアウガルテンに今でも見られます。
現在ではのびのびした素敵な庭園として地元では親しまれています。
中に入ると広々としていて、天気のいい時にはたくさんの地元の人が散策していたり、くつろいでいる姿が見られます。