ウィーンは音楽の都として世界的に知られています。
モーツァルトやベートーヴェンは音楽に詳しくない方でも知っていますね。
でも音楽家の跡はウィーンだけではなく、オーストリアの様々な場所にも点在しています。
最もウィーンは帝国の都であったゆえに当然作曲家達も多く集まることになりますが。
さて、著名な音楽家としてモーツァルトやベートーヴェンの大先輩でもあり、晩年はヨーロッパでも大変に尊敬されたハイドンがいますが、このハイドンがオーストリア人であることを知らない人が意外と多いんですね。
通常のウィーンの観光で音楽をテーマにしたツアーでもない限りウィーンのハイドン博物館を御案内することはまずありません。
でも旧市街の徒歩観光をしている時にはハイドンが皇帝賛歌を作曲した場所をよく御案内することはあります。
そこで今日はハイドンを少し話題にしますがウィーンではありません。私はここをすでに仕事でもプライバートでも何回も訪れていますが、4月の終わりにも行く機会がありました。
ここはブルゲンラント州の州都であるアイゼンシュタットにあるハイドンの家で博物館となっています。
ここはハイドンが34歳から12年間住んでいた住居で、アイゼンシュタットのメイン通りと平行する閑静な通りで、ハイドンに因んでJoseph-Haydn-Gasseと名付けられています。
34歳と言えば彼がエスターハーズィ家の楽団長に就任した年で多忙極まる生活をしていた時です。
エスターハーズィ家はハンガリーの大貴族でハイドンが29歳から40年近く仕えました。
このアイゼンシュタットにはこの街のシンボル的なエスターハーズィ宮殿があります。
建物の中にはさらに閑静な中庭があり、右側に入口があります。
そこを入るとすぐに左に階段がありますが、入場料を先にその右側にあるショップで支払ってからその階段を上がります。
2階はかなりの部屋数があり、ハイドンが住んでいた当時の間取りの模型やアイゼンシュタットの当時の風景、作曲家に関する様々な資料が展示されています。
ハイドンが愛用した楽器やベット、肖像画やデスマスクなども見られます。
当時の著名な作曲家達との交流があったこと、ハイドンのオペラのシーンなど内容が大変充実しています。
ウィーンのハイドン博物館はかなり建物が密集した所にありますが、ここは環境が全く違い
のんびりしていて訪れる価値大です。
ハイドンは1732年3月31日にウィーンから車で東に50km弱走ったRohrau(ローラウ)という Niederösterreichの一角で車大工職人の父のもと、12人の子供の2番目として生まれました。両親は楽譜を読むことができませんでしたが、 ハイドンの記憶によれば家族や隣人達と頻繁に歌を歌っていたということです。
小さい頃から音楽的才能を見い出されたハイドンは、6歳の時にHainburg an d.Donauの
親戚の家に行かされ、そこでウィーンのシュテファン大聖堂音楽学長ロイターの目に留まったのが8歳の時でした。
彼はハイドンをウィーンに連れて行き、ハイドンは9年間合唱団で学びます。
そこでチェンバロ、バイオリン、声楽も学びます。
1749年に変声期のため、シュテファン大聖堂の合唱団を辞めることになり、ここからフリーの音楽家としてウィーンの街にそのまま残ります。
この時期彼にとってはまだまだ修行の時期で、音楽的に欠けていた部分を補うために勉強に勤しんでいました。
おそらく彼にとって最初の大きな音楽家としての仕事は1757年にボヘミアのモルツィン伯爵の小さなオーケストラの楽団長でした。
1760年にハイドンはマリア・アンナとウィーンのシュテファン大聖堂で結婚をします。
モルツィン伯爵の経済的事情からハイドンは辞めざるおえない状況となりました。
しかし、その後まもなくの1761年、彼が29歳の時にハンガリーの大貴族であるエスターハーズィ家の福楽団長として仕えることから始まり、その5年後には楽団長として、作曲活動、楽団の世話、演奏活動等多忙な生活を送ることになります。
アイゼンシュタットのエスターハーズィ宮殿にあるハイドンザールは有名です。
彼が58歳の時の1790年に楽団が解散されたことをきっかけに年金生活となります。
この頃からハイドンは拠点をウィーンに定めます。
1790年~1792年,1794年~1795年と2回にわたるイギリス旅行をするハイドンですが、
その旅行の間の1793年61歳の時にハイドンはウィーンに家を購入し、65歳から住み始めて最終的にそこで77歳老衰で亡くなりました。
アイゼンシュタットはウィーンからも国鉄やバスを使って比較的簡単に行くことができますのでウィーンからのちょっとした小旅行を考えている方にはお勧めです。