ウィーンには街中や公園などの至る所に記念像が立っています。
記念像になるということは当然歴史上に名を残した人物であり、そのような人物がどんなことをしたのかということをちょっと知るだけでもその記念像に対しての見方も変わってきますね。
ウィーンの街をバスで市内観光する時に、結構頻繁に通る所場所とひとつににプラター公園
があります。
ここには映画「第三の男」で有名な大観覧車や遊園地などがあっていつも賑わっています。
ここにはPraterstern (プラターシュテルン)と呼ばれている大きなロータリーがあり、
そこに結構目立つおもしろい形の像が立っています。
この記念像は
Wilhelm von Tegetthoff
(ヴィルヘルム・フォン・テゲトホーフ)
というオーストリア=ハンガリー帝国時代の重要な海軍軍人です。
オーストリアに海軍があるの?
と思われた方はオーストリアの地形をよく知っている方ですね。
現在のオーストリアには海がないので、当然海軍は存在しません。
でも14世紀にはすでにアドリア海の現在のクロアチアの辺りはハプスブルグ家が所有していましたが、その地域の商業や治安などはそこに住む住人によって守られていました。
16世紀前半のオスマントルコの侵入をきっかけに皇帝軍の海軍という概念が生まれ、マリア・テレジアの長男であるヨーゼフ2世の時代、18世紀後半に海軍という形で組織され、帝国が解体される1918年まで存続することになるわけです。
現在のイタリアのトリエステはオーストリアの重要な軍港でした。
その海軍で重要な人物であるこのテゲトホーフは、1827年12月23日にオーストリアの
Marbug an der Drau (現スロヴェニア)で生まれ、父は陸軍中佐でしたので、元々軍人の家系でした。両親は軍人ではなく民間人を希望していたのですが、本人は海軍軍人を希望していたので、それを認めざる負えなかったということです。
1840年~1845年にはヴェネツィアにあるオーストリアの海軍学校で学びました。
そして1845年には最初の船の上での仕事をしています。
1848年の革命後、レバントや皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の弟マクシミリアン大公をブラジルに連れて行く任務なども行い、中南米などの遠距離航海も経験し早く出世をしました。
37歳で少将に、やがて中将に昇進します。
何と言っても彼が活躍した一番有名な戦いは1866年7月20日のリッサの海戦です。
当時のプロイセン=オーストリア戦争で大敗をしたオーストリアですが、(何回かの戦争があった中でケーニヒ・グレーツの戦いが一番有名)このリッサの海戦ではイタリア海軍を倒し、オーストリア海軍が勝利したことでテゲトホーフは海の英雄とみなされ、マリア・テレジア軍事勲章を授けられています。
最終的に海軍の最高司令官となりましたが1871年4月7日に43歳で肺炎で亡くなりました。
プラターシュテルンにあるこの記念像はそのリッサの海戦のちょうど20年後である1886年に彫刻家カール・クントマンと
建築家カール・フォン・ハーゼナウアーによって製作されたものです。
その年の9月21日に序幕されています。
高さ11mの代理石の柱の3か所には船の形が見られます。
それぞれの船には勝利の女神がデザインされています。
帝国時代の海の英雄を表した記念像にもかかわらず、ウィーンっ子からは当時"素朴で簡単な洋服掛け"と呼ばれていたそうです。
確かに船の所が服を引っかけるような雰囲気ですね。
台座の所にはこの写真に見られるようにリッサの海戦の記が見られます。