かつての帝国の都であるウィーンの街は様々な歴史的に需要なものが交差しています。
その中で"音楽の都"と形容されるにふさわしく様々な作曲家の跡が数え切れないぐらいに街中に点在しているウィーンですが、今日テーマにするこの教会はベートーヴェンの葬儀があったにもかかわらず訪れる方は意外と少ないと思います。
今日3月26日はベートーヴェンの命日です。
2本の塔が印象的なこの教会はAlser教会(アルサー教会)と現在では呼ばれていますが、三位一体教会とも、またかつては白のスペイン人とも呼ばれていました。
もともとこの場所に1688年Trinitarier(トリニタリア・・・三位一体)修道会が修道院を作り始めました。 当時彼らは白のスペイン人とも呼ばれていました。
1689年には聖三位一体の絵と共に小さな礼拝堂が作られました。
1692年には修道院が完成し、1704年には教会が完成しました。
1784年、皇帝ヨーゼフ2世はもともとミノリーテン広場のミノリーテン教会界隈で活動していたミノリーテンをこの修道院にと移させました。
新しくここに移ったミノリーテンはヨーゼフ2世によって設立された当時このすぐそばにあったウィーン一般総合病院やそこに属する出産施設、また後には刑務所などでの精神的なケアーを担当しました。
1784年~1938年までここの教区は現在のお役所のような機能もありました。
当時独身の女性や匿名希望の女性、貧困な女性などがこの近くの出産施設で子供を産むことができたことや病院があったことから、いわゆる出生届け、死亡届、洗礼届などの名簿が残されていて、これはヨーロッパで最大規模です。
教会は初期バロック様式で作られていて、前述した2本の塔が印象的です。
正面入り口には三位一体が施されています。
教会内部は教会建築でよくあるパターンであるラテン十字架構造をしています。
主祭壇に向かっての身廊が十字架の長い棒の部分です。
左右の脇にはいくつもの礼拝堂が作られています。
バロック全盛期の様式ではないので、ウィーンのペーター教会やメルク修道院の付属教会のような豪華な装飾は見られませんので結構シンプルに見えます。
Vierung (フィールング)とドイツ語で言われる十字架形の交差部分は日本語でクロッシングと呼んでいますが、そこの天井には小さなドームが見られます。
主祭壇も聖三位一体がテーマになっていてますが、これはJosef von Hempelというウィーン生まれの画家によるもので、1826年のものです。
さて、この教会の正面入り口の左右をよく見ると重要な作曲家のレリーフがあります。
教会の入口右側には左上の写真に見られるベートーヴェンの記念プレートがあります。
ベートーヴェンはこの教会から近い所にあった最後の住居で1827年3月26日に亡くなり、
この教会で3月29日に彼の遺体と共にここで葬儀があったことが記されています。
また、右側にはシューベルトの記念プレートがあり、1828年9月、彼が亡くなる数週間前に
この教会の鐘の奉納のために、聖歌 "信仰、希望、愛 "(D.954)を書いたということが記されています。
ちなみにシューベルトはベートーヴェンの葬儀にも参列していました。
ベートーヴェンに関して
ハイリゲンシュタットの遺書の家、ベートーヴェンのデスマスク、第9交響曲の家、
第9交響曲の家 2、第9交響曲の家 3、交響曲第6番田園の小川、ベートーヴェンの記念像、
ヘレーネ渓谷のベートーヴェンの跡、ウィーン21区のベートーヴェンの滞在場所、
ベートーヴェンの最後の住居、中央墓地、ウィーンのベートーヴェンの散歩道にあるベートーヴェンの像も参照して下さい。
シューベルトに関しては
中央墓地のシューベルトのお墓、シューベルトの生家、ますの泉、シューべルトの泉
なども御覧下さい。