ウィーンは音楽家をテーマにしたら時間がいくらあっても足りない程、様々な作曲家が足跡を残しました。
これもヨーロッパで一番長く続いたハプスブルグ王朝の居城がこの街ウィーンであり、
そしてそのハプスブルグ家に永く神聖ローマ帝国の皇帝やローマ王の称号があったことから
この街は皇帝の居城としても栄えて来たことが大きな理由です。
音楽家の住居をテーマとすると、モーツァルトハウス、ベートーヴェンの遺書の家、
シューベルトの生家などが圧倒的に訪れる機会が多いわけですが、その有名な作曲家達の
大先輩と言えばハイドンですね。
ハイドンと言うと、誰でも知ってますが、モーツァルトやベートヴェンと比べるとすぐに
彼の曲を出せる人は意外と少ないかもしれません。
ハイドンは少年時代と晩年はウィーンの街で過ごしていますし、このウィーンの街で亡なっていますので、彼の最後の家が博物館として公開されています。
ハイドンハウスはベートーヴェンの遺書の家やシューベルトの生家と同様にウィーン市博物館の管轄で、ウィーンの有名な繁華街、マリア・ヒルファー通りに近いウィーン6区Haydngasse19番地にあります。
ここはちょっと見つけづらいかもしれません。
2階建ての建物の中央に入り口があり、入ると中庭の美しさが印象的で、すぐ左に係りがいる窓口があります。
ここの中庭はまた別の機会に紹介します。
中庭に通じる空間の左の壁には、この写真に見られる記念プレートがはめ込まれています。
"この家はヨーゼフ・ハイドンによって1793年に入手され、1797年から亡くなる1809年5月31日まで彼が住んでいた"と記され、"ここで、天地創造と四季が生まれた"
さらに "ハイドンの生誕200年記念の1932年3月31日にウィーン男性合唱団により寄進" と書かれています。
そうです、ここではハイドンのオラトリオである天地創造と四季が作曲されたことが大きなテーマとなっています。
ここは1899年5月31日からウィーン市の博物館としてすでに公開されました。
ハイドンは1732年3月31日にウィーンから車で東に50km弱走ったRohrau(ローラウ)というNiederösterreichの一角で車大工職人の父のもと、12人の子供の2番目として生まれました。両親は楽譜を読むことができませんでしたが、ハイドンの記憶によれば家族や隣人達と頻繁に歌を歌っていたということです。
小さい頃から音楽的才能を見い出されたハイドンは、6歳の時にHainburg an d.Donauの
親戚の家に行かされ、そこでウィーンのシュテファン大聖堂音楽学長ロイターの目に留まったのが8歳の時でした。
彼はハイドンをウィーンに連れて行き、ハイドンは9年間合唱団で学びます。
そこでチェンバロ、バイオリン、声楽も学びます。
1749年に変声期のため、シュテファン大聖堂の合唱団を辞めることになり、ここからフリーの音楽家としてウィーンの街にそのまま残ります。
この時期彼にとってはまだまだ修行の時期で、音楽的に欠けていた部分を補うために勉強に
勤しんでいました。
おそらく彼にとって最初の大きな音楽家としての仕事は1757年にボヘミアのモルツィン伯爵の小さなオーケストラの楽団長でした。
1760年にハイドンはマリア・アンナとウィーンのシュテファン大聖堂で結婚をします。
モルツィン伯爵の経済的事情からハイドンは辞めざるおえない状況となりました。
しかし、その後まもなくの1761年、彼が29歳の時にハンガリーの大貴族であるエスターハーズィ家の福楽団長として仕えることから始まり、その5年後には楽団長として、作曲活動、楽団の世話、演奏活動等多忙な生活を送ることになります。
アイゼンシュタットのエスターハーズィ宮殿にあるハイドンザールは有名です。
彼が58歳の時の1790年に楽団が解散されたことをきっかけに年金生活となります。
この頃からハイドンは拠点をウィーンに定めます。
1790年~1792年,1794年~1795年と2回にわたるイギリス旅行をするハイドンですが、
その旅行の間の1793年61歳の時にハイドンはこのウィーンの家を購入します。
当時は1階建ての建物でしたが、ハイドンは2階部分も増築させて、65歳からここに住み始めることになり、ここで77歳老衰で亡くなりました。
博物館の1階部分にはイギリスの状況、ハイドン時代のこの地域のこと、またハイドンの皇帝讃歌の資料も展示されています。ここに住む前は、この皇帝讃歌が作曲された場所に住んでいました。
階段を上がって2階に行くとかなり色々な物が展示されています。
彼が使用したチャンバロや楽譜などがたくさん展示されています。(ファクシミリ)
おそらく寝室であったという場所には彼の生活リズムも書かれています。
左下の写真が天地創造、右下が四季のファクシミリです。
晩年に作曲された重要な作品2つです。
彼のゲストブックや作曲に使用された鉛筆、ハイドンの像やデスマスクも見られます。
ハイドンは当時ヨーロッパでは最も尊敬された作曲家となっており、弦楽四重奏に大きく
貢献し、モーツァルトやベートーヴェンなどにも大きな影響を与えました。
ハイドンを知らない方はちょっと彼のことを見直してみてはいかがでしょうか。
ちなみにこのハイドン博物館の2階の一番奥の部屋はブラームス記念室になっています。