音楽の都とよく形容されるウィーンの街は、様々な作曲家の跡が街の至る所に見られます。
オーストリアの3大クラッシックの作曲家と言えば、モーツァルト、シューベルト、
ハイドンとなるわけですが、それ以外誰でも知っているベートーヴェンはモーツァルト以上にウィーンに足跡を残しました。
ウィーンとは縁がなさそうなショパンだって2回ウィーンに住んでいます。
少し意外な、でも有名な作曲家シューマンについて少し触れたいと思います。
シューマンは1810年6月8日に現在のドイツ、当時ザクセン王国のツヴィッカウで5人兄弟の末っ子として生まれました。ショパンと同じ年ですね。
父は出版業者でした。シューマンは早くから文学や音楽に親しみ、7歳からピアノを習い始めています。
安定した生活を望む母の希望から、18歳より法学部で学びます。
その頃から作曲もし始めています。
本格的にピアノを学び、音楽理論やバッハの平均律なども研究し、しかも自分が発明した
指の訓練機により右手を痛めて腱鞘炎となり、ピアニストの道を諦めることになります。
そこで音楽評論や作曲家としての生計を立てる決心をします。
1834年に"新音楽雑誌"が創刊され、その編集を担当しています。
1840年、彼が30歳の時にクララと結婚します。クララはシューマンのピアノ教師フリードリヒ・ヴィークの娘で、有名なピアニストでした。
今までピアノ曲を多く作曲してきたシューマンはその年から歌曲も多く作曲することになります。
若い頃からすでにあった梅毒が原因のひとつともされている精神障害が悪化し、
自殺未遂などもあり、1856年7月29日に46歳でこの世を去りました。
こちらはSchönlaterngasseという地元でよく知られた旧市街の一角です。
日本語では美しいランタン通りと言っていいと思います。
この左側に見られる赤い建物に
Schönlaterngasse 7A 番地に
シューマンが住んでいました。
この建物はで、ゴシック時代の部分も残され、16~17世紀に改築された歴史ある建物です。
シューマンと結婚する前にクララは
1838年ウィーンで賞賛を受けます。
皇帝フェルディナント1世は当時18歳のクララについて天才少女と呼んでいますし、ショパンも絶賛しています。
そのクララがシューマンにウィーンで
雑誌を発行してはどうかと提案し、シューマンをウィーンに呼び寄せました。でも結果的にウィーンで成功することはありませんでした。
ひとつ有名なエピソードがあり、シューマンはシューベルトの兄のフェルディナントを訪ねた時に、シューベルトの遺品からハ長調交響曲(大交響曲)が発見され、すぐに出版に至ります。
この家の壁に見られる記念プレートには、
"1838年10月~1839年4月まで
ロマンティックな音の詩人
(ロマン派の作曲家)
ロベルト・シューマンがここに
住んだ"と書かれています。
1838年10月の始めにウィーンに着き、ここに住み始めますが、
出版の見通しがたたず、しかも
兄の重病である知らせを聞いて故郷のツヴィッカウに向かうことになります。
このプレートはウィーン国立音楽大学が、シューマン没後100年記念の1956年7月29日に
献呈したものです。