世界遺産のセンメリング鉄道 1

オーストリアは観光立国というイメージがあるかもしれませんが、この国は小さい国ながら

かなりの経済大国で、様々な産業があります。

その中で鉄鋼業はこの国を代表する産業のひとつで、早くから鉄の技術が生まれ、

LD法という世界特許を生み出し、現在でも鉄鉱石が露天掘りされています。

 

そんなことから鉄道も早くから発達したわけで、オーストリアの世界遺産の中で

"センメリング鉄道"という鉄道が世界遺産にも登録されていることからもわかります。

この鉄道はヨーロッパで一番最初にアルプスを越えた山岳鉄道として大変重要です。

 

この鉄道についてはこのブログコーナーを始めた時から、私は最初に話題にしたかったのですが、なぜか今頃になってしまいました。


"Semmering"(センメリング)とは

標高950m、人口約600人のNiederösterreichのアルプスの中にある街です。

ここはアルプス一角の峠になっている

所で、12世紀までは全く注目されていない、意味のない場所でした。

この辺りは標高こそは高くありませんがアルプスの山の塊が横たわっていて、

当時商人達は道もなかったこの峠を避けていたからです。

しかし、1728年にマリア・テレジアの父、皇帝カール6世がここに17%という

勾配を持った小道を作らせてからは

ここは注目されるようになりました。

 

19世紀になると当時の産業的な発展によりこの道は重要視されていくことになりますが、当時の往来にはすでに適さなくなっていたので、シュタイヤーマルク州で貢献したハプスブルグ家のヨハン大公(彼は皇帝

フランツII/I世の弟・・・つまりマリア・テレジアの孫のひとり)はウィーンからの鉄道をハンガリー経由ではなく、このセンメリングを経由して、現在のイタリアのトリエステまで建設させたいということをかねてから思っていました。

トリエステは当時オーストリアの軍港として重要でした。

 

当時ウィーンからは1842年にGloggnitzまで、グラーツ方面からは1844年にMürzzuschlagまで鉄道が開通していました。このSemmeringの区間だけは、その後1841年に整備された道路がお互いを結び、様々な人々が行き来をしていました。

そこで、この区間を線路を伴った鉄道化が検討されていましたが、当時の技術ではほぼ絶望的であるとされていました。

 

そこで登場するのがCarl Ritter von Ghegaというオーストリアのエンジニアです。

彼は1802年ヴェネツィアで生まれ、1860年ウィーンで亡くなっています。

1841年にこのSemmeringを超える計画の依頼を受け、様々な可能性を検討しました。

その中にほぼ全区間のトンネルを掘るプランももちろん存在したのですが、当時の技術的事情や地形の難しさから、人命に対してのかなりのリスクがあることがわかっていました。

当時この勾配を克服できるいわゆる粘着式鉄道は技術的に存在していませんでしたので、

勾配が大きなこの場所では、アプト式鉄道やいわゆるロープウェイがよしとする反対派も

多く存在しました。

そこで彼は機関車自体に当時の新しい技術を導入し、反対者を退けました。

 

上の写真はSemmering駅に見られるユネスコの世界遺産に認定されていることが記された記念プレートです。

 

3月革命の影響で失業者も多くなったこともあり、1848年の夏には、Gloggnitz側と

Mürzzuschlag側と両方から始まりました。

同時に駅、作業員の駐在場所も作られ、いくつかのトンネルを作った時に出て来た

自然の材料を多く建築資材に利用し、鋼鉄はほとんど使用されていません。

建設に伴って本当に大きな問題となったのは、当時の測量技術では、必要な正確なデータを

そこまで測れませんでした。

 

難工事の末、1853年10月23日にはMürzzuschlag~Payerbachまでの区間を最初の機関車が走りました。

そして、翌年1854年5月16日には、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世とGhega本人が一緒に

この区間を走っています。

その後まもなくの1854年7月17日から人々を乗せて走ることが始まりました。

 

意外なことにこの鉄道は南鉄道プロジェクトの一部分と見なされていたので、華やかな

オープニングセレモニーはなかったといいます。

 

 

 

世界遺産のセンメリング鉄道 2 に続きます。

 

 

 

 

 

 

 

 

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