これだけの音楽家が足跡を残した街はウィーン以外にはないでしょう。ウィーンはヨーロッパで一番長く続いたハプスブルグ家の居城があった街であることからきています。
街中の至る所に音楽家の跡を見ることができ,ここでも色々な音楽家を取り上げていますが、今回はモーツァルトと同時代で、当時はモーツァルトよりも重要な地位にいた
アントニオ・サリエリについて少し書こうと思います。
こちらはウィーンの旧市街地の一角にある
アントニオ・サリエリが住んで、そしてここで亡くなった住居です。
サリエリは1750年8月18日、現在のイタリアのヴェネト州Lenago(レニャーゴ)で生まれました。この地域は今でこそイタリアですが、ここの多くの地域は1797年のカンポ・フォルミオ条約によりオーストリアに属することになり、1805年ナポレオン戦争のプレスブルク条約により、フランス保護のイタリア王国に、またその後間もなくのウィーン会議によって再びオーストリアに入り、その後1866年のケーニヒグレーツの戦いによってイタリアに入るという複雑な歴史を持っています。
・・・ということはサリエリは途中でオーストリア人になったといっても間違いではありませんね。
サリエリはそこそこ裕福な商人に家に生まれ、小さい頃からバイオリンとチェンバロと声楽
を学んでいます。1766年の16歳の時にウィーン宮廷作曲家であるFlorian Leopold Gassmann に呼ばれて帝国の都ウィーンにやって来ます。Gassmannが亡くなった1774年から宮廷作曲家とイタリアオアペラの責任者として皇帝ヨーゼフ2世の下で、1788年からは宮廷学長としてその後もほぼ亡くなる直前まで社会的に高い地位にいました。
教育者としても知られ、ベートーヴェン、シューベルト、ツェルニー、リストなどといった著名な音楽家もサリエリの生徒として有名です。
ここにある銘板には、
"この場所に作曲家であり、宮廷学長であったアントニオ・サリエリの住居と亡くなった家が立っていた"と記されています。
70歳ぐらいまでは非常に健康であったサリエリですが、その後体と精神的な衰えが始まったようで、73歳の時には足がマヒし、病院に運ばれますが、最後はこの自宅に戻り、75歳になる年の1825年5月7日にここで亡くなりました。
有名な映画"アマデウス"でちょっと悪者的になってしまったサリエリですが、逆にこの映画のおかげで忘れられていた彼が再評価されるきっかけにもなりました。
映画のシーンのように、サリエリが精神病院で最後を過ごしたとか、モーツァルトを死に
追いやった・・・とかは事実と異なると思われます。
モーツァルトがウィーンで活躍した頃、モーツァルトにとってサリエリは、はるかに高い
地位にいた人物でしたので、モーツァルトが出生できないのはサリエリのせいだ・・・とのやりとりがあったことは十分考えられると思います。
でもよく言われるようなことは立証されていません。
当時の状況では芸術はやっぱりイタリア・・・でもドイツ語を話す民族からはそろそろ
ドイツ民族を主体とした考え方が生まれ始めていました。
そんなこともあり、永年この地位にあったイタリア人のサリエリが犠牲になってしまったのかもしれません。
しかし、一般的に知られていないかもしれないサリエリが当時大変な有名人であり、
重要な地位にいたことは事実ですし、有名な音楽家達とも交流があったことも事実です。
これからもっとサリエリは知られていくことと思います。