"音楽の都 ウィーン"をテーマにすると、この街はいくら時間があっても足りません。
至る所に有名な音楽家の跡が見られるわけです。
オーストリア人ではないにもかかわらず、このウィーンにたくさんの足跡を残した作曲家といえばベートーヴェンですね。
ベートーヴェンについては、このコーナーでも中央墓地、ベートーヴェンの記念像、
最後の住居、21区の滞在場所、バーデンの第九交響曲の家と多く紹介していますが、
なぜか一番有名な遺書の家についてはまだ書いていなかったので、今日はこの遺書の家に
ついて少し書いて見ようと思います。
ウィーンでベートーヴェンの跡と言えば、"ハイリゲンシュタットの遺書の家"が真っ先に出て来るのではないでしょうか。
音楽を専門にされている方から一般の方まで幅広くここを訪れます。
ハイリゲンシュタットは現在ウィーン19区にある、当時のVorortと言われた郊外の集落のひとつで、ベートーヴェンが
好んで滞在した場所のひとつです。
ベートーヴェンが20歳を過ぎてまもなく2回目のウィーンにやってきますが、それから彼は生涯をほぼこの街で過ごすことになるわけです。
ウィーンに来てからすぐに、演奏家として、また作曲家として認められ、順風満帆なスタートを切りましたが、26歳ぐらいから耳の兆候が現れ、一挙に絶望へと変わって行きました。ベートーヴェンは30歳を過ぎてから始めてこの悩みを親しい医者アダム・シュミットに打ち明けました。そこで医者はこのハイリゲンシュタットでの療養を勧めます。
ハイリゲンシュタットは18世紀後半に再発見されたローマ時代からの温泉であり、19世紀終わりに水源は封じられます。現在は公園になっていて前述したベートーヴェンの像が立っています。ここでベートーヴェンは聴力の回復を期待したわけです。
しかし、一向によくならず、むしろ聞こえなくなっていきました。作曲家として耳が聞こえなくなるというのは致命傷であり、そこで彼は絶望し、死を決意する遺書を書くことになります。遺書の日付は1802年10月6日で、彼が32歳の時でした。
しかも劇的なことにこの遺書はベートーヴェンが亡くなった後に発見されたものでした。
保養客は施設の宿に泊まったり、近所の家に下宿したりとしましたが、ベートーヴェンはその近くに住まいを設けたわけです。
ウィーン市による記念博物館"ハイリゲンシュタットの遺書の家"はちょっと階段を上がって入るとすぐ窓口があり、中は小さい部屋が2つあるだけです。
最初の部屋にベートーヴェンのその遺書のファクシミリや、この辺りの風景画、彼の像、ツェルニー、医者、リヒノフスキー侯爵などの絵があります。
その奥の2つ目の部屋は、Schwarzspanienstr.にあるベートーヴェンが亡くなった最後の住居からの資料が展示されています。
そこにはデスマスクやベートーヴェンが書いた最後の法的効力がある本当の遺書や、彼の葬儀の模様や最後の部屋の絵などを見ることができます。
そこの窓から外を眺めると、教会の塔を見ることができます。
その教会は当時温泉保養所があった現在の公園に建っていて、今でも時を刻んでいる11世紀終わりに建てられたミヒャエル教会です。ベートーヴェンはこの教会の鐘の音を聞こうとしたはずですが、難聴という病からその鐘の音も聞こえづらくなっていったのしょう。
ベートーヴェンがどんな思いをしてこの場所で生活をしていたのでしょうか・・・。
ベートーヴェンのこの遺書の家は別の研究によれば1807年の大きな火災の後に建てられたという説や、ベートーヴェンはここではなくハイリゲンシュタットの別の場所にいた説などがあることは確かです。
いずれにしてもベートーヴェンが自ら死を決意して遺書を書いたことは事実であり、ハイリゲンシュタットに滞在したことも事実です。
※ハイリゲンシュタットの遺書の家は2017年11月25日よりリニューアルされてオープンしています。