ウィーンの旧市街地には魅力的で美しく、また歴史的に重要な広場がたくさんあります。
その中でミヒャエル広場はローマ時代に現在のKohlmarktとHerrengasseが交差し、王宮、ロースハウス、カフェ Griensteidlなど重要な建物があります。
そこにこの広場の名前にもなっているミヒャエル教会について少し書きたいと思います。
このミヒャエル広場に来ると、ひときわゴシック様式の塔が目立つこの教会がミヒャエル教会です。
ハッキリとわかっていませんが、おそらくここには11世紀頃に、このミヒャエル教会の前衛である教会があっただろうと
推定されています。
現在視覚的に確認できることをベースにすれば、13世紀前半の1220年頃とされ、その部分は教会西側の左角に見られます。
その後1275年、1319年、1327年と度重なる火災に襲われます。
確かな記録としては1267年と、司教Gerhard von Siebenbürgenによって述べられています。
当時はシュテファン大聖堂の姉妹教会だったようです。
このミヒャエル教会は元々、どこかの修道会が所有したものではなく、ウィーン市のものだったようです。
新古典主義様式の教会正面は1792年、Ernest Kochによるもので、その上の劇的な大天使ミヒャエルは1724年、Lorenzo Mattielliによるものです。
こちらは教会内部です。
ミヒャエル教会は最初から、(1220年以降)後期ロマネスク様式の3層構造(身廊と側廊2つ)でプランされ、現在でも身廊部分に、例えば柱などに13世紀半ば頃を
確認することができます。
身廊は13世紀半ばに建設されていて、現在までその姿を留めています。
その身廊部分のアーチは1276年と時代を特定することができます。
1350年に現在でも存在しているKreuzkapelle(十字架礼拝堂)が作られ、1416年にハプスブルグ家のアルブレヒト5世により、内陣が延ばされました。
15世紀の終わりには、小さなロマネスク時代の窓が大きなゴシックの窓に取り換えられました。
たいていの教会はそうでしたが、このミヒャエル教会も墓地がありましたが、1508年に皇帝マクシミリアン1世によって閉鎖されました。
その後も教会地下にも18世紀までは埋葬されていました。
このミヒャエル教会のGruft(地下墓地)は、1560年から1784年まで使われていました。
30年戦争中の1626年にはBarnabiten(バルナバ会・・・パウロの教えに基づくカトリックの男性修道会)に管理を任され、大きく改築もされました。
バロック時代にはよくあるようにバロック化され、その後新古典主義に変えられています。
アウグスティーナ教会の次に並ぶ宮廷の教会として、歴代ハプスブルグ家の皇帝達によって
使われてきました。
ここの中央祭壇は1781年、Jean Baptiste d´Avrangeによるもので、16世紀1540年のマリアのイコン画と、1781年に製作された背景の大天使ミヒャエルが一体化している特徴があります。
この教会はゴシック様式でまとめられているように見えますが、色々な様式が混在していることがわかります。
場所的にも歴史的にも重要な教会です。