街中至る所に有名な音楽家の跡があるウィーンです。
2013年10月28日付の「ウィーンの中央墓地 3」で、ヨハン・シュトラウス(父)のお墓について書きましたが、そのシュトラウス(父)の最後の場所がウィーン旧市街地にあります。
ここはウィーンの旧市街地の人通りが少ないKumpfgasse という閑静な一角で、
シュトラウス(父)が亡くなった場所です。
ヨハン・シュトラウス(父)は、1803年3月14日に、ウィーンの現在2区LeopoldstadtのFloßgasse で生まれました。
バイオリンをMichael Pamer,音楽理論をIgnaz von Seyfriedに学び、3歳年上であるヨーゼフ・ランナーとKapelle der Brüder Schollで演奏していました。
まもなく1825年にランナーが自らの楽団を結成し、シュトラウスはそこで当初演奏します。この1825年、シュトラウス(父)が作曲家として初めて聴衆の前に立ちました。
ランナーとはまもなく音楽的な対立もあり、2人は別々の方向に行くことになりますが、シュトラウスは当時、義理の父との契約の関係上、すぐには自らの楽団を組織できませんでした。
その2年後ランナーと離れ、自らの楽団を結成し、大成功します。
シュトラウスの(父)のその後の生涯については、「ウィーンの中央墓地 3」を御覧下さい。
シュトラウス(父)はこの閑静なKumpfgasse 11番地で、1849年9月25日に猩紅熱で亡くなりました。
こちらの写真はそこに掲げてある銘板です。
「ヨハン・シュトラウス(父)は、1849年9月25日 1914年までここに建っていた小さなRamhofで亡くなった・・・1949年に
Alt Wienerbundによって捧げられた」と記されています。
彼の息子のワルツ王ヨハン・シュトラウスの方が、美しき青きドナウ等を通してより知られていると思いますが、シュトラウス(父)もラデツキー行進曲という大ヒット曲もあり、息子に大きな影響を与えました。
街中を歩いていると、意外な所に意外な著名人達の跡がたくさん見られます。