このコーナーでは何回か中央墓地について紹介していますが、中央墓地には全部で6つの現在使用されている門(入口)があります。
一般的には「ウィーンの中央墓地 2」でも書いていますが、第2門で路面電車を降ります。
6つある中央墓地の門の中でこの第2門が一番印象的で、時代様式を見ることができます。
中央墓地は1874年11月1日にオープンした、ヨーロッパでは
2番目に大きな墓地で、
広さ2.5km²,33万個のお墓が
あります。
もともとウィーンの城壁の中の
中心部にもそれぞれの教会付属の墓地がありました。
現在でも土葬が基本ですが、中心のようにごみごみした場所に遺体を埋葬するというのは衛生上の問題があり、マリア・テレジアの時代に、城壁の中の
遺体埋葬を禁止させ、女帝の長男ヨーゼフ2世に時代に墓地を
第2城壁(Linienwall・・・リーニエンヴァル)の外側に18世紀の終わり近くに移します。
それから19世紀の後半、ウィーンのリンク道路も建設され、ウィーンが外に伸びて行く時に第2城壁界隈の墓地ももっと外側に移す必要があったわけです。
当時第2城壁界隈にあった5つの墓地をまとめてさらに外側にこの中央墓地を
建設しました。
ちなみにその5つの墓地とは
St.Marxer Friedhof,Hundststurmer Friedhof,Matzleinsdorfer Friedhof
Währinger Friedhof,Schmelzer Friedhof
の5つです。
この第2門は世紀末様式で、Max Hegele (マックス・ヘーゲレ)によって1905年に作られました。
第2門の入口には2本の塔が
印象的に建っています。
それぞれの塔の下の所には、ウィーン市のワッペンを掲げた双頭の鷲を見ることができます。
Max Hegele は1873年5月25日にウィーンで生まれたウィーンのJugendstilの建築家で、1945年にウィーンで亡くなっています。
Jugendstil(ユーゲントシュティール)は、19世紀後半にヨーロッパの色々な
様式が出揃う中で、新しい様式・芸術を
という発想から生まれた
19世紀終わり~1914年の第1次世界大戦が始まるまでの短い時代ですが、
とても重要でウィーンでは色々な所に見ることができます。
言ってみればオーストリア アール・ヌーヴォーですが、こちらでは
ユーゲントシュティールと一般的に表現します。
この中央墓地第2門は、中央墓地の一番有名な所に一番近い門ということもあり、とても印象的に作られています。