この広場は、ウィーン旧市街にローマ時代からあるHoher Markt (ホーアー・マルクト)が
中世の頃に人口に対して十分な広さではなくなっていたので、1234年に新しく広場をここに作りました。
19世紀までこの広場では、小麦粉や穀物が売られていたので、Mehl Markt(メール・マルクト)などとも呼ばれていました。
ちなみにこの広場には,Mehlgrube(メールグルーベ)と呼ばれた建物がフィッシャー・フォン・エアラッハによって1697年にとても目立って建てられました。
その2階はホールになっていて、そこでは若きハイドン、モーツァルトやベートーヴェン等がコンサートを行っていました。
この広場の一角に、ハイドンが晩年住んだ場所があります。
ハイドンはオーストリア人での
3大クラシックの作曲家のひとりです。
2013年11月22日にアイゼンシュタットのハイドンザールについて書きましたが、エスターハーズィ家に仕え、そこで安定した多忙な生活を送ります。
58歳の1790年、エスターハーズィ―家の楽団が解散し、ハイドンは年金生活に入りますが、その後、イギリスにも2回行き、大成功を収めます。
イギリスに住むことも考えたハイドンですが、結果的にウィーンに戻り、大きな家を購入します。そこはハイドンが1797年から1809年に亡くなるまでの12年間住んだ彼の最後の家です。
イギリスから帰ってきてこの家に引っ越してくるまでの1795~1797年にこのNeuer Marktに住み、ここで有名な「皇帝讃歌」を作曲しました。
ここでいう皇帝とは「フランツII/I世」で、マリア・テレジアの孫にあたるウィーン会議時代の皇帝です。
この曲はフランツ皇帝の誕生日の1797年2月12日に初演され、フランツ皇帝に捧げられました。
「神よ、皇帝フランツを守りたまえ」(Gott erhalte Franz den Kaiser)とも呼ばれる
皇帝讃歌は、このオーストリアのための国歌としての意味もありました。
ハイドンがイギリス滞在中にイギリスの国歌を聞いて、感銘し、我がオーストリアにも国歌があれば・・・と思ったようです。
作曲はハイドン、詩はレオポルド・ハシュカです。
とても癒されるようなこの旋律は何と1922年以来現在のドイツの国歌になっているという悲しい実情です。
ハイドンの弦楽四重奏第77番の2楽章にもこの旋律が用いられています。
この皇帝讃歌は、オーストリア帝国の国歌として、その後オーストリア=ハンガリー帝国崩壊まで実際に使われていました。
現在のオーストリアの国家は、「山岳の国、大河の国」
(Land der Berge, Land am Strome)です。