ウィーンの街は音楽家だけに焦点を当てても見きれません。
これだけの作曲家が足跡を残した街はウィーン以外にはないでしょう。
以前にも書きましたが、オーストリアにおいての3大クラッシックの作曲家と言えば、モーツァルト、シューベルト、ハイドンですね。
一般的に観光では、モーツァルトやベートーヴェン、シューベルトといった作曲家がウィーンでは特にポピュラーでしょうか。
そんな作曲家の中で、意外かもしれないのがピアノの詩人ショパンもウィーンに住んでいたことがあります。
この写真はそのショパンの銘板です。
ショパンはポーランドで1810年に生まれました。ショパンの父はフランスからポーランドに16歳の時に移住してきました。彼はフルートとヴァイオリンが演奏できたそうで、母はピアノがうまく、ショパンは6歳の時に母の弾くピアノに涙を流したと伝えられています。そこから旋律などを自ら作るようになったそうです。
16歳の時、父の勧めでワルシャワ音楽院に入学し、3年後主席で卒業した彼は、一度このウィーンでデビューしています。これは1829年の8月でした。
この時はかなりのいい評価をされた反面、音が小さいなどという批判もあったそうです。
その後ショパンは活動舞台を西側に広げようと再びオーストリア、やがてはイタリア行きを
考えていました。
そしてショパンは再びウィーンに1830年11月到着、この時ポーランドにいわゆる11月蜂起が起きたことから、ウィーンではポーランドに対していい感情がなかったこと、それからウィーンナーワルツが全盛期であったことなどもあり、十分な演奏会の機会も得られす、パリ行きを決断するショパンです。
この銘板はその時期「1830年11月~1831年7月までショパンがここに住んだ」と書いてあります。
この銘板がある場所は、このユーゲントシュティール様式の建物で、
ショパンが住んでた当時の建物は1900年までこの場所に
建っていました。
当時ショパンはここの4階(日本では5階)に住んでいたようです。
ショパンはピアノ曲だけに長けているというイメージがありますね。
彼はロマン派の作曲家ですが、かなり改革的でした。
様々な形式、特に彼の作品には古典的形式にとらわれないスタイルの方がショパンらしさを発揮します。
美しく、魅力的な旋律、また半音階的な和声法によって表現を更に拡大しました。
ソナタ、バラード、スケルツォ、舟歌、幻想曲、ポロネーズ、ノクターン、ワルツ、
マズルカ、即興曲、エチュード、プレリュードなど名曲ばかりです。
実はウィーン滞在中にワルツがとても流行っていた・・・ショパンの音楽とは対照的な面がありますが、ショパンはウィーンナーワルツはもううんざりだ・・・なんて書いていますが、結構ウィーンナーワルツにも影響を受けたんですね。
ちなみに2010年はショパン生誕200年記念の年でした。
それに合わせてSchweizergartenにモダンなショパンの記念像が立てられています。
こちらはウィーンにおけるもうひとつのショパンの跡です。