本日10月26日は、オーストリアにとって大変重要な「Nationalfeiertag」
(ナチィオナルファイエルターク)、直訳すれば国の祝日です。
国が定めた祝祭日という意味ではなく、「オーストリア共和国自身を祝う祝日」
という意味です。
よくオーストリアの建国記念日と訳されていますが、これは直訳ではありません。
ヨーロッパで一番長く続いたハプスブルグ家の帝国時代最後の皇帝カール1世が、シェーンブルン宮殿で一切の事から手を引く・・・と宣言したのは1918年11月11日でした。
その翌日の12日にはドイツオーストリアという
民主主義共和国が手回しよく生まれています。
この時の首相は社会民主党のカール・レンナーでした。
1919年~1934年まではオーストリア共和国と呼ばれました。
ちなみに、この期間のことを第1共和国と呼んでいます。
その後オーストリアファシズムがあって、1938年にヒトラーの最初の犠牲国となったオーストリアは地図上から消えてしまいます。
その後第2次世界大戦に巻き込まれて敗国となりました。
そこで連合軍(アメリカ、イギリス、フランス、ソ連)の占領時代が10年間続き、オーストリアは分割統治をされることになります。
この終戦の年の1945年、ソ連が一番最初に東側からオーストリアに到着し、残り3国が後からやってきました。そのため必然的にソ連の力が強かったわけです。
オーストリアにソ連がバックについた暫定内閣が生まれてしまいます。
ソ連は共産主義という名目で、チェコ、スロバキア、ハンガリー、ブルガリア、ルーマニア、ポーランド、ドイツの東とベルリンの東、そしてかつてのユーゴスラビアを支配します。この時にオーストリアもドイツ同様分断され、ウィーンもベルリン同様「壁」が築かれる可能性がありました。
実はこの時に、ソ連をバックにした暫定内閣の首相として前述のカール・レンナーが再び政治界に登場します。
レンナーは言ってみればソ連に騙されるふりをしながら、他の有能な同胞政治家達と協力し、内閣を改造し、共産党を極力排除していき、民主主義体制を構築しました。
その後、戦後処理問題に時間がかかり、結果的に10年間という長い月日が流れましたが、ついに4か国占領時代に別れを告げる国家条約が、ソ連のモロトフ外相、アメリカのダレス国務長官、イギリスのマクミラン外相、フランスのピネー外相、オーストリアのフィーグル外相と共にウィーンのベルヴェデーレ宮殿で、1955年5月15日に結ばれました。
ちなみに1945年以降「第2共和国」と呼ばれています。
さて長くなりましたが、1955年5月15日に国家条約を結びましたが、そこから4か国がオーストリアを完全撤退するまでにはまだ数か月を要しました。
よく地元の人に「なぜ10月26日がオーストリア共和国の祝日なんですか?」と聞くと最後のソ連兵がウィーンを出て行った日・・・と本当にそう思ってる人が多いんですね。
最後のソ連兵は9月19日にオーストリアを去っていますし、しかも本当の最後はイギリス軍が10月25日にオーストリアを去っています。
次の日10月26日に「die immerwährende Neutrarität」・・・オーストリアは永世中立国である・・・という法律が国会を通して定められました。
つまり、現在のオーストリアの永世中立国体制が法律として定められたことから、今日のこの日はオーストリア共和国の祝日となっています。