ウィーンの森には見所が点在しているわけですが、前回紹介したハイリゲンクロイツ修道院と並んで重要なスポットのひとつに「Mayerling」(マイヤーリンク)があります。
マイヤーリンクはウィーンの中心から車で約40kmほど行った、ウィーンの南の森に位置し、オーストリアのルドルフ皇太子がマリー・ヴェッツェラ男爵令嬢とピストル心中自殺を遂げた、かつての皇太子の狩猟の館が建っています。
そこは礼拝堂があり、その礼拝堂や建物内部でいくつかの資料を見学することができます。
この場所は、元々ハイリゲンクロイツ修道院が1550年から所有していた場所ですが、1886年にルドルフ皇太子が入手していて、彼のどうやら一番のお気に入りの場所だったようです。
ルドルフ皇太子とその父親フランツ・ヨーゼフ1世は、しょっちゅう政治的対立をしていました。
フランツ・ヨーゼフはオーストリア=ハンガリー帝国を統率するので精一杯という感じで、ドイツとの同盟が基本でした。
でも皇太子はこれからは、フランスやロシアとの同盟が不可欠だ・・・ということで、180度政治転換を打ち出し、そこから対立が激しくなっていました。
このままでは、帝国も崩壊し、ハプスブルグ家だってなくなってしまう・・・と不安に駆られた皇太子は色々なアプローチをして、その考えを世に訴えていきます。
でもこれが父親には理解できなかったようです。
家庭面ではどうやら幸せではなかったようです。ベルギー皇女のシュテファ二ーと結婚し、女の子もひとり生まれていましたが、性格や考え方が違いすぎて皇太子は離婚を考えます。
でも結果的に離婚はできませんでした。
また、ルドルフ皇太子の母が、あの有名なバイエルンの王女エリザベートですね。
エリザベートとフランツ・ヨーゼフの間には4人の子供が生まれますが、最後の娘だけが、エリザベートの手で育てることができました。
ルドルフ皇太子は3番目に生まれた唯一の男の子です。
そんなことから、皇太子と母との関係も、通常の母、子の関係とは違っていたようです。
そんな状況から、皇太子は精神的にもかなり参っていて、自分の存在価値などを考えるようになり、やがては死・・・という発想も持ち始め、また色々な所に現実を逃避するかのように女性の影があったようです。
そのひとりとなったのが、マリー・ヴェッツェラ男爵令嬢です。
最初は皇太子は軽い気持ちだったかもしれませんが、マリーは真剣でした。
そして最終的に、1889年1月30日、2人がこのマイヤーリンクの寝室のベットの上で遺体となって発見されることになります。
ほぼピストル心中自殺であろう・・・ということになっています。しかし亡くなった後、
2人が発見されたわけですから、様々な説があることは確かです。
いずれにしても、皇帝フランツ・ヨーゼフは、この狩猟の館をカルメル修道会に捧げ、皇太子が亡くなった寝室の部分を中心に取り壊し、小さな教会を作らせました。
そのため、この写真で見られるように、教会が不自然な雰囲気で、ポツンとくっついているように建てられているのがわかります。
こちらはその教会の内部です。
この祭壇は、ルドルフ皇太子の寝室にあったベットの真下の位置に置かれています。
中央フレスコ画は、三位一体が上部に見え、真ん中に中腰の成人が描かれています。
この聖人がヨゼフです。
その他ハプスブルグ家の守護神達が
描かれています。
この教会内部から、右側増築部に入ると、この事件に関する資料が展示されています。
こちらはマリーの写真で、この狩猟の館で見ることができます。
マリーは、1871年ウィーン生まれです。
一番右側は彼女が16歳の時の写真ですが、いっしょにこの世を去った時は、17歳と10ヶ月11日でした。
参考までにマリーヴェッツェラのお墓も御興味がある方はどうぞ!
こちらはルドルフ皇太子のかなり知られた写真です。
何となく精神的に弱そうな・・・
そんな雰囲気に写真からは伝わってきます。
でも彼の思い描いていたフランスとロシア同盟策は、やはり政治的先見の目があったと評価されています。
この事件は、皇太子がマリーとの恋が叶わなかったから・・・というような単純なことではありません。やはり父親との政治的対立が一番大きいように思えます。
また言ってみれば、一緒にこの世を去ってくれる誰かが欲しかったのかもしれません。
この事件は1930年にクロード・アネが小説化していますが、それが1936年映画化され、
日本では「うたかたの恋」というタイトルで有名です。
これはその後1968年、オマー・シャリフとカトリーヌ・ドゥヌーヴが演じる「マイヤーリンク」として再度映画化されています。
とてもそのような悲劇が起きたとは思えない、美しく静かなこのウィーンの森の一角に、ルドルフ皇太子のかつての狩猟の館が今でも何事もなかったかのようにたたずんでいます。