ウィーンの王宮はヨーロッパで一番長く続いたハプスブルグ家の居城として、また神聖ローマ帝国の皇帝の居城として長年使われ、増改築が繰り返されてきました。
そのためとても複雑で色々な建築様式から成り立っています。
今日は「王宮」第3弾です。
も是非御覧下さい。
こちらはLeopoldinischder Trakt (レオポルド宮)です。
これは王宮の英雄広場側からの眺めで、この建物の後ろは、マリア・テレジアの孫のひとり皇帝フランツII/I世の像がある中庭で、アマリエ宮や帝国官房棟があります。
このレオポルド宮は、名前の通り皇帝レオポルド1世により1660年頃カルローネ兄弟が建築しました。
レオポルド1世はマリア・テレジアの御祖父さんです。
1683年のオスマントルコのウィーン包囲が終わった後、この建物は新しくなり、階数がひとつ増えて現在に至る初期バロック様式です。
このレオポルド宮と前回紹介したアマリエ宮の地下にはハプスブルグ帝国時代には大きなワインケラーがありました。
またフランツ・ヨーゼフ1世の甥で、サラエボの銃弾で倒れることになるフランツ・フェルディナント皇太子がゾフィー・ホテクと結婚するために、ゾフィ―の皇族としての権利、また生まれてくる子供達にも皇位継承権を放棄した場所でもあります。
現在ここはオーストリア大統領官邸にもなっています。
こちらはNeue Burg (新王宮)です。
上の写真と同様に英雄広場から見ています。
王宮の中でも一番新しい部分で、昔の城壁が壊された後
リンク道路が1865年に完成するわけですが、その後リンク道路の両側は建築ラッシュとなりました。
その時に最後の王宮の増築として、リンク道路を挟んだ向こう側の美術史博物館と自然史博物館を含め、その外側にある現在の博物館地区(MQ)を含めた大カイザーパレス
としてプランされたものでした。
しかし、結果的に未完成で終わり、この写真の部分以外は建築されませんでした。
この新王宮は、ゴットフリート・セムパーとその後カール・フォン・ハーゼンナウアーによって,1894年にハーゼンナウアーが亡くなり、その後彼の生徒達などによって、最終的にこの部分は帝国崩壊5年前の1913年に完成しました。
この新王宮の部分は、もともと城壁、堀があった部分であるため、土台は25mとかなり深くしなければいけなかったということです。
中央バルコニーで、1938年5月15日アドルフ・ヒトラーが演説をすることになります。
建築様式は19世紀後半を象徴する混ざった様式で、1階部分はルネッサンス的石積み、2階バルコニー部分は古代ローマ凱旋門、柱はトスカーナ様式にギリシャコリント様式で、中央には双頭の鷲がオーストリア帝国の帝冠を持っています。
現在は国立図書館、古楽器博物館、武器・鎧博物館、Weltmuseum、エフェソス博物館、パピルス博物館が入っています。