シューベルトの生家

ウィーンは音楽の都と言われる通り、様々な音楽家が訪れ、この街で生活をしていました。

今回はオーストリア3大クラシックの作曲家であり、今日が誕生日のシューベルトについて少し書いてみたいと思います。

 

シューベルトは、1797年1月31日にウィーンで生まれました。

この写真はシューベルトの生家で、ここの日本で言う2階でシューベルトは生まれます。

シューベルトのお父さんは学校の先生でした。

 

この建物は全部で16世帯あったいわゆるアパートであり、シューベルトのお父さんはここで住居と学校のスペースと2つの場所を借りていました。

 

お父さんの学校はマンモス学校で1クラス約80人の子供達が通っていて、2クラスありましたので、160人以上の子供達がこのせまい所に通っていたわけです。

 

シューベルトのお父さんテオドールとお母さんマリア・エリザベート・フィーツの間には

14人の子供が生まれますが、9人が5年以内に他界し、5人が成人しますが、シューベルトは4男でした。

 

シューベルトの兄3人は、お父さんと同様教師になります。お父さんは、音楽の造詣もあり同様に一番上のお兄さんイグナーツも音楽の造詣あり、そんな環境からシューベルトは幼少の頃から音楽に触れていました。

 

この場所は居心地がよかったわけですが、学校が大きくなっていったので、引っ越しをせざるおえませんでした。

この生家にはシューベルトが4年半住みました。

 

 

 

ここは博物館として、実際に

シューベルトが生まれた場所と、

当時の隣接していた住居も利用して一般公開されています。

これはシューベルトのめがねです。

シューベルトは寝る時もめがねを

かけていたと言われています。

それは起きてから、すぐにひらめいた曲を書くためでした。

めがねはシューベルトの一種のトレードマークですね。

 

 

こちらは

「糸を紡ぐグレートヒェン」の自筆譜のファクシミリです。

とても丁寧に書かれています。

でもモーツァルトと違って、シューベルトの楽譜を見ると

(他の作曲家はたいていそうですが)、かなりの訂正箇所を見ることができます。

(この写真では見られませんが)

シューベルトはウィーン少年合唱団の前衛でもあるコンヴィクトで学んでいます。

音楽的な才能はあったようで、サリエリがシューベルトの才能を評価しています。

 

その後、兵役から免れるため、シューベルトも17歳の時に、お父さんの学校を手伝える資格も取っています。

もっともあまりやる気はなかったようです・・・。

 

音楽家としては、何か重要なポストに就いたわけでもなく、作品が出版されたこともなく、それなりに彼の才能は知られ、作曲で収入もありましたが、生前中音楽家として成功したというわけではないでしょう。

 

ベートーヴェンが亡くなった1827年の翌年1828年にシューベルトも31歳という若さでこの世を去るわけですが、ベートーヴェンが神格化されると同時に、シューベルトの歌曲に対しての評価が高まり、「歌曲の王」として名を残すことになります。

特にドイツリート(ドイツ歌曲)をたくさん作曲しました。

 

でも歌曲以外にも室内楽、ピアノ曲、教会音楽、交響曲、オペラ等幅広く作曲しています。

 

シューベルトは発想が次々と浮かんでくる天才肌だったようですが、個々の楽器については本人がそこまでうまく演奏できたわけではなかったようで、特にピアノ曲などは技巧的にかなりくせがある・・・と言われています。

 

ウィーンの街中にはシューベルトの跡がたくさん残っています。

 

 

 

 

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